愛知学院大学 禅研究所

愛知学院大学 禅研究所

参禅会体験記  平成12年

本研究所では、毎月第2火曜日午後4時30分から火曜参禅会を開催しています。
本学の教職員や学生ばかりでなく、学外の方や外国の方も参禅に来られます。経験の有無にかかわらず、関心のある方は、お気軽に禅研究所までお尋ねください。
以下に、参禅会員の体験記を紹介します。

中川 正秀

良寛さんに魅せられ

 参禅会の仲間に加えていただき、夢想の境地に浸る楽しさを味わい始めて数年になります。それは、毎年春秋の公開講座を聴講し始めて、その案内の中に参禅会の入会申込書が入っていたことがきっかけでした。初回に一通りの作法を懇切に教えていただき、一生懸命に無想に努めました。しかし、無想とは思った程易しいことではありませんでした。まして、一時間余も無想で通すことは極めて難しいことです。私は半跏趺坐しかできないのですが、それでも終わりに近くなると足が痛くなってきます。
 入会したばかりの頃、自宅で線香一本が燃えつきるまで坐禅を組もうと努力しました。しかし自宅ではいくら努力しても無想の匂いも感ずることができません。無駄な努力と思い、止めてしまっています。
 参禅会の方は、回を重ねる毎に徐々に夢想を持続することができるようになり、苦痛も減りました。最近では、終わって帰る時の一歩一歩大地に足を下ろして、自分が自然界の一部であることを実感している時の気持を大切にしながら、それを次回まで、できるだけ永く持続させたいと思っています。そして今では、参禅会が生活のリズムの中に組み込まれ、次回が待ち遠しく感じています。
 そもそも私が仏教に関心を持ち、仏教の入門書等を読みはじめたのはだいぶ古いことになります。しかし、特に強く惹かれるようになったのは、テレビで水上勉氏による良寛さんの番組を見て、良寛さんに興味を覚えた時からでした。良寛さんの詩歌や、その生涯の解説等を読み、彼の生き方を知って行くにつれて、私の仏教観は一変しました。良寛さんこそお釈迦さまに最も近い人と思われ、その日常の中での坐禅の位置付けもおぼろげに分かりかけて来ました。丁度その時に、参禅会への入会案内を受け取ったのでした。しかも良寛さんと同じ曹洞禅への誘いでした。
 今の私にとって、坐禅は聞法などと同じで続けることが大切です。「熏習」なのだと信じ、「坐禅は習禅にあらず、大安楽の法門なり」の言葉に励まされ、満足しています。そろそろ自宅でも、また坐禅を始めようかと思っているこのごろです。

小出 龍郎

とらわれのない心、ゆとりの心

 愛知学院に就職してから、しばらくして学内の方に火曜参禅会を薦められ、参加させてもらっていますが、1回1回有り難い教えとして自分を顧みることにしています。
 坐禅と自分との最初の出会いは、小学校低学年の時に、宗内徒弟研修会に初めて参加した時でした。その時の坐禅はまさに難行苦行と感じられ、何のために坐るのかさえもわかりませんでした。
 現在20世紀末を生きる私たち現代人は、周囲の環境や人が、忙しい、騒がしい、穏やかでないなど、一言でいえば大変騒々しい世の中にいます。また、複雑な人間関係に神経をすり減らしたりしています。このような騒がしい、不安な世の中であればある程、心をとらわれず、心を静かにする、心を安らかにすることが一層大切になってきます。また相手の立場を思いやったり、意見を聞いたりする心の余裕を失ってしまうこともあります。このような心のゆとりを忘れてしまったままでは、自分も心から安らぐことはできないでしょう。
 道元禅師は、「正伝の仏法における坐禅は、悟りを得るための坐禅ではない。ただ、これは安楽の法門である。菩提を究め尽くす修証である」といわれています。一般に、坐禅は悟りを得るための修行で、苦行であると思われていますが、禅師は、坐禅は苦行ではなく、安楽の法門であり、それがそのまま悟りの行、仏の行であるといわれています。
 このように、とらわれのない心、ゆとりの心をもつために参禅会に参加し、それにより、心を安らかにすること、ゆとりをもつことの大切さを考えてみたいと思います。そして、このことを自分のセミナーの若い学生たちにも、是非伝えていきたいと思っています。

西 昭嘉

私にとって坐禅とは

 パーリ仏典の中に釈尊と青年との対話が残っている。「君たちが婦女を探し求めるのと、自己を探し求めるのと、君たちにとってどちらがすぐれていますか?」「尊い方よ。もちろん、私たちにとっては、自己を求めることのほうがすぐれています。」この対話の中で、釈尊は自己を探し求めることを説いている。
 また『ダンマパダ(法句経)』には自己をととのえることが説かれている。「……自己をよく制御せられた時、人は得難い主を得たのである。」
 原始仏教において、修行とは自己を求め、自己を制することであった。そしてこれらの目的を得るために、修行者たちは禅定を行っていたのであるゆえに、坐禅の目的とは自己を求め制することであると言えるであろう。
 ところで、以前私は修行道場で坐禅を行いながら、こう考えた。「坐禅をしても、何の答えも出ない。何のために坐禅を行うのであろうか?」坐禅を行う人であれば、同じ疑問を抱いたことがあるに違いない。まして坐禅を一、二度行っても、何も得ることができないのは当然である。
 道元禅師は坐禅について、「参禅とは身心脱落なり、只管打坐にして初めて得る」と説いている。「只管打坐」とは、ただひたすら坐禅を行うことであり、この言葉には全身心をあげて、坐りぬくこと以外に仏法を体解することはない、という意味がこめられている。
 いままで、この「只管打坐」という言葉が私に疑問を抱かせていた原因でもあった。ところが本格的に仏教を学問として学び、坐禅を続けていくうちに、答えを見い出すことができた。
 それは自己を制し求めることでもあったが、なによりも「只管打坐」そのものに答えがあったのである。
 私にとって坐禅とは、何も求めるものでもなく、ただ坐禅を続けて行うことに意義があった。だから、私は最後まで坐禅を続けていこうと思う。

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