愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成11年度

本来無一物(著・岡島秀隆)

「むいちもつ」という言葉はその読み方が何となく面白い気がしていつの間にが覚えていました。初めは「無一文」という表現と重ね合わせて「何もかも失ってしまった哀れな様子をいうんじゃないか」くらいに思っていたのですが、「本来無一物」となると俄然哲学的な響きを持って来るのが不思議です。

この言句は中国禅宗六祖(ろくそ)の大鑑慧能禅師(だいかんえのうぜんし)(638〜713)のものと言われており、『六祖壇経』に次のような偈(漢詩)が載せられています。

菩提本樹無(ぼだいもとじゅな)し、明鏡亦台(めいきょうまただい)に非(あら)ず。本来無一物、何(いず)れの処(ところ)にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん。

これは五祖(ごそ)の弘忍大師(こうにんだいし)が後継者たる六祖を決定する機縁となった言で、慧能の心境が遺憾なく示されているということです。ここでの本来無一物とは、「私達人間の身心の生まれたままの本性は元々ピュアなもので菩提だの明鏡だのといった言葉で解説したり、思慮で推し量ろうとするまでもない」といった意味です。慧能という人物はこの純粋さをずっと保ち続けていた稀有(けう)の人だったので六祖と成り得たのでしょう。しかし、現在の私達の「あるがまま」は薄汚れてしまっています。慧能の先輩の神秀(じんしゅう)という人はそこに焦点をあてていたと思うのですが、この点については今回説明を省略します。

一方、茶道に「わび茶」という言い方があります。本来無一物とは、日本的形式美のひとつの極致である「わび」の精神を示唆する言葉として茶室の掛け物でも馴染みのある言句なのです。この場合は「わざとらしい処や飾り気のない閑寂(かんんじゃく)な趣(おもむき)」を愛でるわび好(ごの)み(佗(わ)び数奇(すき))を象徴的に言い表わすところがあるのでしょうが、根っこは先の慧能の境涯に通じる面があります。ただし、ここでは「俗っぽい余分なものを全て捨て切ってしまう」という条件が達成された時、清々とした本来無一物の生き方が自然に現れ出るというわけですから、この言句はわび好みの生き方の理想を呈示しているともいえます。

ところが、欲望の対象に事欠かない現代社会において、全てを捨てるということはいかにも困難なことに思えます。『新約聖書』のマタイ伝に、裕福な青年がイエスに「永遠の生命を得るためにどうしたらよいか」と尋ねる話があります。イエスが「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施してから、私に従いなさい」と告げますと、青年は落胆して去っていったというのです。彼はあらゆる律法を堅く守っていたのですが、多くの資産を持っていたからです。更にその後でイエスは弟子達に言われました。「富んでいる者が天国にはいるのはむずかしい」「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」と。

このような人間の姿を考えてみますと、本来無一物と理屈で解ったとしても、実際にその心境に到達することは至難のわざと言う他ありません。でも、もしそうした境地を会得できたならば、どんなにか安楽に生きてゆけることでしょう。それに「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」という蘇東彼(そとうば)の句のように、そこにかえって何ものにも束縛されない自在な創造性に満ちた世界が待っているとすればどうでしょうか。この言葉はいつの時代にも変わらぬ憧憬と永遠の魅力を秘めて、今日も私達に語りかけています。

(教養部教授)

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