愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成12年度

是什麼物恁麼来(著・伊藤秀憲)

「是れ什麼物か恁麼に来る(これなにものかいんもにきたる)」と読みます。これは南嶽懐譲(なんがくえじょう)が六祖慧能(えのう)に参じた時の六祖の問です。『正法眼蔵遍参(へんざん)』では、『広灯録』等によって次のように記しています。

南嶽大慧禅師、はじめて曹谿(そうけい)古仏に参ずるに、古仏いはく、「是甚麼物恁来」。この泥弾子(でいだんず)を遍参すること、始終八年なり。(中略)ちなみに曹谿古仏道(いわく)、「你作麼生会(なんじそもさんかえす)」。ときに大慧まうさく、 「説似一物即不中(いちもつをせつじすればすなわちあたらず)」。

「什麼」(甚麼)は、「何」と同じ疑問詞です。「恁麼」は、「このように」(如是)という意味ですから、この問は「何ものがこのように来たのか」という意味になります。答えるのに8年の遍参を要したということは、単に名前を尋ねたのではないと言えます。「何ものがこのように来たのか」、すなわち「このように来たのは何ものか」ということは、「おまえとは何ものか」ということで、問われた懐譲の側からすれば、「自分とは何ものか」ということになります。仏道の中心課題である自己の究明がなされているかどうかを、六祖は問うたのです。
それに対する懐譲の答は、「説似一物即不中」(ことばで説いたとたんに的外れになります)です。自分とはこのような者ですと、幾らことばを費やしても、自己そのものは言い表すことは出来ません。そう懐譲は答えたのです。

ところで、道元禅師はこの問を、『正法眼蔵恁麼』で次のように解釈されます。

この道(どう・是什麼物恁麼来)は、恁麼はこれ不疑なり、不会なるがゆゑに、是什麼物(ぜじゅうもぶつ)なるがゆゑに、万物まことにかならず什麼物なると参究すべし。一物まことにかならず什麼物なると参究すべし。什麼物は疑者にはあらざるなり、什麼物なり。

「恁麼」は「不疑」であり、「不会」であるというのは、疑う余地のない、私たちの理解を越えたもの、私たちの認識では捉えられないものであることを表しています。「物」は人にも物にも使うのですから、あらゆるもの(万物)を指すと見てよいでしょう。「是什麼物なるがゆゑに、万物まことにかならず什麼物なると参究すべし」と説かれています。「什麼物」は、「自己とはなにか」と問いかけていると同時に言葉で表現できない自己を示したことばであると言えます。なぜならば、言語によって表現しえない自己(万物)を語るとするならば、「なにもの」(什麼物)としか言いようがないからです。このように理解すれば、「什麼物」は既に疑問を表すのではなく、自己(万物)そのものを表しているのですから、「什麼物は疑著にあらざるなり」ということになります。「什麼物」(このように来た)とは、このように来たもの、すなわち自己のありのままの姿(如是相)を表しており、六祖は「什麼物」こそが自己のありのままの姿(恁麼来)であることを、「是什麼物恁麼来」という問の形で示したのです。これに対して懐譲も、「説似一物即不中」、言語によって表現したとしても、それはありのままの姿を捉えたことにはならないと答えたのです。これはもう問と答ではなく、六祖の問の中にすでに答があり(問所の道得)、懐譲の答も六祖と同じ内容を自分のことばで表した(同道唱和)ということになります。このように、道元禅師は二人の問答をより深く解釈されているのです。

(文学部教授)

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