愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成14年度

日日是好日(にちにちこれこうにち)(著・菅原諭貴)

 中国唐代に活躍した雲門文偃(うんもんぶんえん・864〜949)に「日日是好日」の教えがあります。『雲門広録』には「15日已前(いぜん)は汝に問わず、15日已後(いご)一句を道(い)い将(も)ち来(き)たれ。自ら代って云く、日日是好日」とあります。

 15日とは、禅門では結夏(けつげ)(90日間に及ぶ修行開始の日)・解夏(かいげ)(修行終了の日)・布薩(懺悔の日)など一つの節目として、古来よりそれに因んでの説法が行われます。そこで雲門は修行者に対し、昨日までのことはともかく、今日ただ今、自己の真実の一句を言ってみよと詰問し、自ら修行者に代って「日日是好日」と答えています。

 「日日是好日」とは、言葉の上からは毎日毎日が安楽で結構な日であるという意味です。しかし、天候・気候においても、晴れの日ばかりではなく、風雨・大雪もあれば、暑すぎたり寒すぎたりと思うようになりません。現実世界は浮き世・忍土と言われるように苦しいことも、悲しいことも多く、人生は苦難の連続で、決して好日ばかりとは言えません。また、科学や合理性を尊ぶ現代人においても、何か事をなすにあたっては、暦の六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)をもつて、日柄の善し悪しを占うのが常です。

 もともと六曜の起源をたどれば、中国・朝鮮・日本の官暦にもなく、江戸時代の民間暦・暦注書にも見当たりません。当初は単に日にちを区別するための記号であったものが、後にそれぞれに吉凶が付加されたものと考えられています。

 吉田兼好の『徒然草』には「吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行ふに、必ず吉なりといへり。吉凶は人によりて、日によらず」とあります。暦の上では大安・吉日だをらとて、悪事を働けば、その日は必ずや自己にとって悪日となり、また厄日・凶日であつても、善事善行にいそしめば、素晴らしい1日ともなりえます。

 私たちは案外、大安・友引・先勝を良しとし、仏滅・先負などを忌み嫌って生活していますが、兼好の言うがごとく本来、吉凶禍福は暦法などに左右されるものではなく、自己の心の持ち様や生活のいかんによるべきものと言えましょう。

 禅者としての生き方は、いたずらに過去を悔いず、また未来に思いを致すこともなく、ただ今日をいかに生きるかにあります。雲門の示す「日日是好日」の真意も、日日を仏法挙揚に努め、仏法者として仏道に適った生活であれば、最高最上のかけがえなき1日(好日)となり得ると言うことにあり、そのためには今日をどのように使い得るかにあると言えます。

 人はみな平等なる24時間を持っていますが、その使い方いかんによって、吉とも凶ともなりえます。いかに今日1日を充実した日にするかが肝要であり、それには暦や天候などに吉凶の有無を求めることなく、与えられた24時間という尊き1日に対し、真心を込め、万事・万行の一々に最善を尽くし、自己を完全燃焼していく以外にはありえません。

 常に今時の一瞬に生命(いのち)を燃やし、輝き行くところに、雲門の説く「日日是好日」の面目が現前するのであり、好日なる一歩一歩の歩みが、やがては「年年是好年」の良き人生へと花開くことでしょう。

(短大部助教授)

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