愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成17年度

画餅−画に描いた餅は飢えをふさぐに足りず(著・田島毓堂)

 正法眼蔵渓声山色の巻に香厳智閑の悟りの契機が語られる。いわゆる香厳撃竹(げいちく)の話だ。

 香厳は大潙禅師の下で修行していた。ある時、大潙が言った「君は聡明で物知りだ。お経の注釈なんかからでなく、君の父母も生まれる前の所からわしのために一句を言ってくれ」と(汝聡明博解なり。章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし)。香厳は答えようと試みるがどうしても出来ない。今まで色々勉強してきたことは何だったのか、年来集めた書物も焼いて「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に仏法を会せんことをのぞまじ、ただ行粥飯僧(ぎょうしゅくはんそう)とならん」と言って年月を経た後、大潙に言った。「お願いですから、私のために言って下さい」と。「言わないことはないが、言えば後に君はわしをうらむだろうよ」と。その後、大証国師の跡を武当山に訊ねて庵を結んで暮らした。ある時、掃除をしていて、掃いた石が竹にカチンと当たった音を聞いて大悟したという。まさに、自然の語る真理の声を聞いたのだった。それこそが父母未生以前の一句だった。香厳は、大潙に深く感謝した。

 ここで香厳の言った「画にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず」というのは、知識だけでは何ともならないといことだ。大悟するには一旦それを放下しなければならない。大潙はそれを勧めたのだ。この言葉は、「画に描いた餅では腹はふくれない」というように今も世間に通用している。

 正法眼蔵には面白い例がある。心不可得の巻の、徳山宣鑑に関する話だ。道元禅師は徳山の話をよくする。尊敬もしているが、この話は駄目な徳山だ。金剛経に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とあることをめぐってのある婆さんとのやりとり。徳山は自分は金剛経のことは何でも知っていると自負し、「周金剛王」と称していた。ある時、南方に嫡嫡相承の無上の仏法があると聞いて「憤りにたえず」自分の作った注釈書を背負って遥々南方に出かけた。途中一休みをしていると、餅売りの婆さんと行き会った。「あんたは何をする人か」「餅売り婆だ」「私に餅を売ってくれ」「和尚、餅を買ってどうするのだ」「点心にするのだ」。そこで婆さんが訊ねた「和尚、そこにぎょうさんに持っていなさるのは何ですか」。徳山は「知らないのか、私は周金剛王だ、金剛経のことは何でも知っている。これはその注釈書だ」。これを聞いて彼の婆さん、「私に一つ質問があります、聞いてもいいですか」「何なりとどうぞ」。婆さん曰く「私はかつて金剛経を聞いた時に過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得と言っていましたが、和尚はどの心に餅を点じようというのですか、分かるように答えてくれたら餅を売りましょう」と。聞いて、徳山は茫然自失、答えることが出来なかった。婆さんは払袖してその場を去った。

 徳山はこのとき「画にかけるもちひ、うゑをやむるにあたはず」と。

 正法眼蔵には「画餅」という巻がある。ここでは画餅は真実であり、山や川を描いた画と同じだと言う。法界虚空全て画図にあらざるなしと言う。画餅は画餅としての用があり、それで腹を満たそうとするからおかしな事になるのだ。」

(文学部教授)

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