愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成21年度

狸奴白牯却って有ることを知る(著・岡島秀隆)

 これは中国唐代の禅僧、南泉普願禅師の示衆として知られる言葉で、『従容録』第六九則などに出ております。曹洞宗門では栄西と道元の相見の折に栄西の語った言との伝もありますが、史実ではないようです。『正法眼蔵』では「行仏威儀」の巻などにも見られる言句です。筆者がこの言葉に初めて出合ったのは、西谷啓治先生の『正法眼蔵講話』です。『従容録』の本則では成仏作祖を汚名を蒙ると嫌い却って獣の姿を理想と考えること、もしくは殊更に賢さが表に現れるのを隠して有り触れた普通の姿で生きる者の中にこそ、真の賢徳がいるという考えが示された後で南泉禅師が再び説示をほどこすといったところで、「三世諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」というのが全文です。「能ある鷹は爪を隠す」の箴言や、かの犬儒学派の理想にも通じる面がありましょうが、もう少し本文を検討してみます。

 狸奴とは猫の類のこと、白とは牛の謂いで動物のことです(山猫と去勢した牛との説もあります)。悟りに到った諸仏のような立派な方々がそれを知らないのに、動物がよく知っていることがあるという意味です。現代風に考えてみましょう。私たち人間の感覚能力には限界があります。その一方で、他の種の動物の中にはよりすぐれた聴覚や嗅覚を持ったものがいます。例えば、猫の嗅覚は人間の数万から数十万倍、犬の嗅覚は百万倍以上とも云われますし、聴覚は犬で人間の二倍、猫で四、五倍とも云われています。とすれば、そうした動物が感知できる世界があるわけですから、動物たちの知り得て人間に知りえない存在世界があるということでしょう

 また、動物は周囲の環境と切り離されておらず、環境とともに生き活動するのですが、それに対して人間は道具を使うようになって自然の束縛から解放され、また自然を対象化することができるようになりました。自然を対象化できるということはそれを容赦なく利用できるということです。 そうして人間は豊かな文化生活を獲得することになったのです。しかしその代わりに、自然を直接に感じ取る能力、自然と融合する力を退化させ、自然を味わい楽しむ機会をも奪われたといわれますから、なるほどと頷けるように思われます。もっとも諸仏の能力が動物の感知能力をはるかに凌駕するというのなら、この話は成立いたしません。

 ところで、この言句の要点のひとつは謙虚な気持ちです。E.レヴィナスは現象学以降の他者の問題を思索して自他の存在の類似性にではなく、両者の異質性に着目し、全く自己に属さない何ものかに他者の本質を見ました。そして、そのような絶対他者性との相互関係の中で成長し自己として完成してゆくのが人間存在なのだと考えたようです。犬猫といった動物との関係だけでなく、人間相互の関係性においても異質なものを他者として受け入れることは重要です。謙虚に他者の他者性を受容することは、現実の関係世界、仏教でいう縁起世界において自己の閉塞状態を打破する手段なのです。こうした観点からこの古き言葉の意義を考えてみるのも、自己中心的で横柄な人間の横行する現代社会においては大切なことだと思います。

(教養部教授)

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