愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成08年度

道元禅師と経典元東京女子大学教授 水野弥穂子

 坐禅と切り離すことができないのが道元禅師の教えです。しかし、『正法眼蔵隨聞記』に「話頭を以て悟りをひらきたる人有りとも、其れも坐の功によりて悟りを開くる因縁なり」とありますが、道元禅帥は、坐禅さえあればほかに何もしなくてよいとは言っていないのです。

 また、別のところでは「学人初心の時、道心有っても無くても、経論聖教等、よくよく見るべく、学ぶべし」とも言っています。これは懐奘(えじょう)禅師ほどの功を積んでいない初心者に言っているのです。経文をどんどんめくって、内容を一つ一ついかに自分で考えるかということを言っているわけです。

   『隨聞記』6の5には「無智の道心、始終退する事多し。智慧有る人、無道心なれども、つひに道心をおこすなり」とあります。ここに言う「有智」「無智」の智は、智慧分別の働きを言うと思われますが、ただむやみに道心だけを振りかざし、智慧も分別もない者に対して、経典等をたよりに、仏教とは何かを考える人のほうが、後に道心を発して一生懸命やるということが言われています。

 坐禅家などというと、頭でやることは頭の思索、頭の分泌物だなどと言いますが、とんでもありません。頭の働きとは、私たちが頂いている仏の力なんです。坐禅の時は頭を使わないと言われます。坐禅の時は考える必要もないほどに仏と一致しているからなんです。そのかわり坐禅を一歩出たら出身の活路です。その時は頭を徹底的に使います。これが私たちの仏の智慧の働かせどころなんです。ですから、ただ坐禅でもない。仏教とは何かよく知っておきなさいと言っています。

 『宝慶記』を見ますと、道元禅師は、経典と教外別伝(祖師の教え)との関係について質問されますが、如浄禅師の教えにより、間違いなく、経典の仏教と祖師の仏法が一つであることを確信されたのです。『随聞記』で、初心の参学者に「経論聖教等」をよく読むように言われるのは、全く同じ趣旨なのです。

  「供養諸仏」の巻には、釈迦牟尼仏が本当に釈迦牟尼仏らしくなるには三祗百大劫の修行がかかるとあります。阿耨多羅三藐三菩提を求めて30億の釈迦牟尼仏を供養して以来、定光仏に供養するまでも、どうしても成仏の記を授けられることがなかつたと言います。その理由は、すべて「有所得なりしを以ての故なり」とあります。これは『隨聞記』6の24にある「無所得無所悟にて端坐して時を移さば、即ち祖道なるべし」の一文に契合するわけです。

 諸仏を供養するには坐禅にまさるものはないわけです。仏法は自己の外に仏を見ることなく、「仏は仏に嗣し、祖は祖に嗣し、玄沙は玄沙に嗣する」(一顆明珠)のですから、無限の供養諸仏が必要であり、供養する相手は、自己の外にある仏ではないのです。しかも釈迦牟尼仏の前生が釈迦牟尼仏になるに当たっては、自己が自己になるだけですから、足りないものはないわけです。つけ加えるものもないわけです。それが「無所得無所悟」ということです。

 経典の大風呂敷の世界と「学道の最要は坐禅是れ第一なり」というこのお言葉一つがぴたっと合っているのです。経典というものは決して坐禅と離れたものではないとわかって読んでいくと『正法眼蔵』は興味津津、傾聴していくべきものとなります。

 もし道元禅師の健康が恢復されたなら、もっと多くの経典と祖道との接点が示されたと私は思っております。

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