愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成10年度

悔いのない人生愛知専門尼僧堂堂長 青山俊董

 道元禅師のお歌に

 “春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり”

 という一首があります。

 川端康成がノーベル文学賞をいただいたとき、受賞記念講演をストックホルムでなさいました。その冒頭にこの歌をだされて一気に有名になった歌です。

 その歌の題名は「本来の面目(ほんらいのめんもく)」でした。本来というのは、仏性とか仏とか神とか、あるいは真如(しんにょ)とか空とか無とかいろいろな言葉で表現できます。生命の本当の根源という表現をしてもよいかもしれません。

 “面目”というのは、面目を一新したとか、面目丸潰れとか、面目を施したなどともいいますが、姿・形・中味が面目です。仏様の姿・形・中味が “春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり”ということなのです。

 仏という言葉を聞くと、仏壇やお寺の本堂に坐っている仏様などを心に描きますが、そうではないのです。目に見えない天地いっぱいの働き、姿そのままが仏の姿・形なのです。一人の人間の上にもってくれば、“生老病死”という姿となって展開します。
それが全部仏様の姿であり、中味であるというのです。

 専門の言葉を借りれば、「悉有仏性(しつうぶっしょう)」という言葉があります。この「悉有仏性」には2つの読み方があります。

 “悉く仏性あり”の見方と “悉有は仏性なり”の見方です。

 “悉く仏性あり”の見方は、たとえば梅干の中に種があるみたいに、仏性という尊いものを持っているから持ち主も尊いのだという雰囲気です。1つの中に尊いものと尊くないものが混在しているような感じで、これが”悉く仏性あり”という読みです。あるなしという読みは、切り口によっては汚いところばっかりということにもなりかねません。

 道元禅師の見方は違います。“悉有は仏性なり”というように、一切の存在は仏性のなれるものという見方です。仏性でないものはないのです。一切の存在は仏のいのちの展開なんだという受けとめ方です。

 この悉有という仏のいのちをいただいていることにおいては、私どものいのちも、草木のいのちも、水一滴のいのちも、米一粒のいのちも全部平等なんだというのが、天地一切の姿なのです。

私の好きな詩に、

“「せまいなせまいな」
といってみんな遊んでいる
朝会のとき
石をひろわされると
「ひろいなひろいな」と
ひろっている”

 というのがあります。これは小学校4年生の作った「運動場」という詩です。

 運動場が伸びたり縮んだりするはずはないのですが、遊んでいるときは狭く感じる。石をひろわされるときは広く感しる。それが人間の寸法というものです。

 たった一度の人生を生きるのに、気まぐれの伸縮自在の私の思いを先とせず、人生の運ぶべき方向というのを無限に学びながら運ばせていただいて、はじめて縫い直しのできない私の人生という一枚の着物が立派に縫えるのではないでしょうか。

 榎本栄一さんの詩に、

“自分免許はあぶない
これでよろしいかと
よき人にみてもろうて
また道を歩く”

 というのがあります。一針一針どう運んだらよいか。人生の今日の一歩をどう運んだらよいか。わがままいっぱいの私の思いを先として生きたら悔いは残る。凡夫だからしょうがないけれども、その思いをなるべく横に置いて、手綱を引き締めて、運ぶべき方向を無限にお訪ねしながら生きる。

 それではじめてこの私の人生運転がどうにか交通ルールの違反を最小限度に抑えてなんとか運転できるのです。これが“自分免許はあぶない…”ということです。

 仏に訪ね、先輩に訪ね、師匠に訪ね、教えに導かれながら、わがままいっぱいの私がなんとか真理に導かれながら、よき人に導かれながら、この一歩を運びたい方向ではなくて、運ぶべき方向にむけて運ばせていただきましょうという願いの中で生きる誓願です。

 ある人が元旦の朝、今年1年腹を立てずという願いを立てて、午後にはもう腹を立ててしまったというのですが、それでもいいから、崩れてもよいから、願いを立て直し続けながら歩いて行くことです。よき人、よき教えにひっぱっていただきながら、この私を少しでも道にかなうように歩ませていただこうという願いを立て続けて生きる。そんな生き方をしたいと思います。

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