愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成13年度

華厳と禅東京大学名誉教授 鶴見大学教授 木村清孝

 華厳にも禅にも、いろんな側面があります。華厳という言葉にはおおよそ、華厳経という経典、それを拠り所として形成された華厳宗独自の体系的な思想「華厳教学」、華厳教学も含め華厳経の強い影響下に誕生した思想一般の3つの意味があります。禅という語も、その原語、サンスクリット語のディヤーナ(心を落ち着け澄ませる実践のあり方)やその概念をやや広げた禅の境地の実現に関わる実践一般をいう「禅観」、あるいは「禅宗」の意で用いられます。この華厳と禅は、全然違うものとされがちですが、どうもそうではないようです。まず華厳経にどういう禅の思想や禅観の問題が出てくるのでしょうか。

 華厳経は、基本的に釈尊の悟りの世界に到る道筋を明らかにした経典です。そこで初めに仏の悟りの世界の実現を宣言します。仏の悟りの場が、華厳経の根本の舞台なのです。ところがこの仏は、一箇所に留まることも自ら説法することもありません。では教えを説くのは誰かと言えば、それは主に菩薩たちです。このような仏の押さえ方から言えば、華厳経の構想が禅的な深い瞑想の世界を前提にし、そこに現れてくる真実の在り方を提示していると言えます。ですから華厳経はある意味、禅の経典なのです。

 更に、具体的な教説として華厳経には三昧について丁寧な開示が見られます。例えば賢首菩薩品では、私たちの感覚意識器官と三昧との関係を丁寧に描き出していきます。見るという目の働きを通じて瞑想の世界に入っていき、見られた世界を介してその瞑想の場から出てくる、と述べているのです。次に、華厳経の念仏三昧についてですが、普通、念仏と言うと、口で南無阿弥陀仏を唱えることを指すと思いますが、本来は仏を憶念すること、つまり、仏の姿や仏の世界を深く心の中に思い浮かべて意識の世界においてそれと一体化していく一種の瞑想を言います。この意味での念仏・念仏三昧が、華厳経の入法界品に出てきます。ところで、華厳宗では後に「一即一切、一切即一」「一入一切、一切入一」と言いますが、これは1つのものの中に美しく大きな真実の世界が全部詰っている、ということです。このようなあり方は、禅定、瞑想的な世界の内景と言うべきものではないでしようか。

 ところが華厳宗が注目したのは、これまで述べたようなことよりも、海印三昧や華厳三昧でした。特に海印三昧は、仏の根本の禅定と見なされました。大きな海が静まり返り、少しも波立たない。そんな大いに静まった仏の瞑想の世界に、あらゆるものがありのままに刻印され、映し出される。そこにくっきりと如実に真実のすべてが浮かび上がる。中国華厳宗の人々は、仏教の根源的なありようをそのように捉えたのでしょう。更に、韓国の華厳系仏教の初祖、義湘は、海印三昧によって宗教的世界の全体が成り立っているという見解を示しています。韓国の華厳宗、そしてその影響を強く受けた禅仏教は、こういう考え方がベースになっているのです。

 ところで中国の居士仏教の代表者、李通玄が華厳宗とは違う瞑想実践の方法を提唱しています。それは華厳経の光明覚品に基づく仏光観です。仏の体から放たれた光が次第に宇宙全体に広がっていく、という記述に基づき、李通玄は、いわば光を心の中で追跡し、光の広がりに応じて自分の心も拡大し普遍化していき、自分と光の世界が1つになり同時に自分自身の真実の姿が顕わになる。仏光観は、そういうありようをめざす観法と言ってよいでしょう。

 では禅宗における華厳思想の問題はどうでしょうか。華巌経や華厳教学の影響を受けた禅者の一人に碧巌録の編者として知られる圜悟克勤(えんごこくごん)がいます。彼は華厳経に言及するだけでなく、自分の体験を通してそれを読み解くという態度を取っています。特に思想史的に興味深いのは、華厳宗の存在論とも言える四法界に関する考え方です。四法界とは、存在するものの世界を見方の深さにより4つに区分したもので、事法界(事象の世界)、理法界(真理の世界)、理事無礙法界(事象と真理が障害なく関わり合い融合する世界)、事事無礙法界(あらゆる事象と事象が障害なく自在に関わり合い調和する世界)のことです。圜悟は、これと禅の境地の対応を論じ、結局のところ、四法界の範疇ないし領域が消滅して、そこで初めて禅の世界が開け、禅の世界は事事無礙法界の上にある。そういう自由の境地こそが禅が目指すもの、と説いているのです。

 このように、禅者の立場からは、華厳は教義的な枠組みを脱していないという批判がなされますが、中身からいうと、華厳の世界が深く禅の世界と通じ合っていることは確かだと思われます。

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