愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成22年度

釈迦の生き方花園大学教授 佐々木 閑

 日本の仏教は親鸞や道元というように細かく分かれていますが、それらを別々に見ても仏教の本筋はわかりません。やはり、2500年前の釈迦まで戻らなければいけない。しかも、釈迦の出家から話を始めても、仏教の本質はわかりません。なぜなら、釈迦がなぜ仏教を作らなければならなかったのかということが理解できないからです。

 このことをお話するために、200年前のインドの話題から始めましょう。当時、インドを植民地としていたイギリスは、現地の事情を調べるために多くの学者を派遣しました。その中の一人の言語学者が、インドとヨーロッパの言葉が同系統であることに気づきました。そして、これらの言葉が、もとは同じ言語だったことを発見したのです。

 その後、この同じ言葉を使っていたインド人とヨーロッパ人の祖先は、もとは同じ民族だったと考えられるようになりました。この民族がどのような人々だったのかは謎ですが、インド最古の『ヴェーダ』という本の中に、彼らが自分達のことを「アーリヤ」、つまり「聖なる民族」と呼んでいる箇所があります。そこで、彼らはアーリヤ民族と呼ばれています。このアーリヤ民族が西と東に分かれ、その一部がインドに入ったのです。

 今でも、南インドには私達に似たアジア系の顔立ちの人が多く、北インドには色白の人が大勢います。これは、アジア系の人々がいたところへ、白人系の人々が後から来たことの表れです。このように、インドには二つの人種がいて、両者は肌の色で区別されます。そして、それがそのまま差別の構造になりました。上位が白人系のアーリヤ民族、下位が原住民の人々です。

 さらに、この区別は職業の違いによって四つに分けられました。上の階級から順に、神々と人間の仲介役のバラモン、富と権力を支配するクシャトリヤ、一般庶民のヴァイシャ、召使いや小作人のシュードラからなるカースト制度です。しかし、実はこの下に、人間扱いされないチャンダーラという人達がいます。

 このカースト制度の基本は、どの家に生まれたのかによって階級が決まり、それは絶対に変えられないということです。このカースト制度のもとで、バラモンを中心に作られた社会構造をバラモン教と言います。バラモン教は、紀元前1500年から1000年頃、インドの北西部で成立しました。

 ところが、バラモン教がインドの北東部に広まった時、そこで実際に権力を握ったのは経済的に裕福なクシャトリヤでした。そのため、彼らの中からは、生まれによって全てが決まってしまうバラモン教に反発する人々が現れました。紀元前500年頃、彼らは、人間の価値は生まれた後の各人の努力で決まるという新しい考え方を主張したのです。

 問題は、その努力の中身です。当時、反バラモン教の人々は大勢いましたが、その主張は大きく二つに分かれました。一方は苦行者と呼ばれる人達です。彼らは、例えば死ぬまで片足で立っているというように、肉体的な苦痛や我慢を「努力」だと考えました。

 それに対して、本当の努力は肉体的な苦行ではなく、自分の精神構造を変えることだと主張した人達がいます。釈迦は、この人達の代表でした。

 ただし、釈迦は修行の最初で失敗をしています。彼は苦行を行い、断食をして、骸骨のように痩せ衰えたのです。

 しかし、釈迦はその間違いに気付きました。肉体を苦しめることは、自分の目指す幸せとは関係がない。むしろ、肉体は健康でなければいけないと考えたのです。ですから、大半の仏像はふくよかな姿をしています。そこに、釈迦の修行の本質が表れています。

 さらに、釈迦は菩提樹の下で静かに坐り、全てのエネルギーを精神に向けました。肉体は何も使いませんから、一見すると何もしていないように見えます。しかし、ここに仏教の本質が示されています。

 精神集中とか瞑想と言うと、難しいと思うかもしれませんが、恐らく全ての人に、その経験があるはずです。

 一番わかりやすい例が、数学の問題を解いている時です。最初は全くわからなかった問題が、しばらく考えていると何となく解けそうに思えてきます。その時、頭の中では不要な情報を捨て、必要な情報だけを使って、何らかの道筋を作る作業が行われています。そして、最後に解ける。

 ここで大事なことは、答えは初めから問題の中にあったということです。問題を解いている途中で、新しい情報が加わったわけではありません。

 私たちは、多くの情報に惑わされたり、余計な情報を組み合わせたりすることで、答えを見失っているだけなのです。精神を集中して情報を整理することで、最終的な真理にたどり着くことができます。釈迦は、これと同じ方法で悟りを開きました。

 彼は、心の中に苦しみや悩みが生まれるプロセスを分析し、その原因を取り除けば、苦しみを消すこともできると考えたのです。そして、苦しみの原因は、自分中心の不合理な考え方だと悟りました。

 世の中は、様々なものが原因と結果となって動いています。ところが、私達は物事を自分中心に考えてしまい、「これは俺のものだ」と執着します。その結果、現実とのギャップが生じ、苦しみが生まれるのです。この不合理性のことを無明と呼びます。

 しかし、苦しみの原因がわかっても、それは我々に染み付いていますから、すぐには消せません。そこで、日々の努力が必要となるのです。

 仏教の基本は、全ての人間は平等だということです。ですから、誰もが強い意志を持てば、自分で自分の心を変えられる。釈迦と同じ道をたどれば、釈迦と同じ悟りに達することもできるのです。(文)

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