愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成27年度

釈尊「六年苦行」をめぐって ―自我からの自由―駒澤大学名誉教授 奈良 康明

 禅研究所開所五十周年、坐禅堂開単三十五周年を心よりお祝い申しあげます。

 この機会に記念講演をさせていただくことは大変名誉なことです。私なりに仏教信仰の中核にある自我の問題を釈尊の「六年苦行」を巡ってお話し申しあげる機会を得たことは大変有難いことと受けとめております。

 さて、出家した釈尊は六年間の苦行を行なったが、悟りをひらくことが出来ず、苦行を意味なきものと知ってそれを捨て、菩提樹下で瞑想に入って悟りを開いた、と一般に伝えられています。しかし、釈尊修行の六年間は本当に「苦行」だけの六年だったのでしょうか。もしそうなら、この六年間は無駄な年月であったということにもなりかねません。果してそれは無益、無意味なものだったのでしょうか。

 以下にこうした問題を意識しながら、仏典の記述を整理し、その宗教的意味をさぐってみたいと思います。

 まず、釈尊が修行を始める前提となった出家の原因について確認しておきます。釈尊が老病死に代表される人生の苦、不安を自覚し、出家したことは良く知られています。しかし、老病死に悩む、とはどういうことなのでしょうか。

 実は、釈尊は老病死そのものに悩んだのではありません。釈尊は、老病死を縁としつつも、思い通りにしたいという自我と、思い通りにならない現実との間に自我が引きさかれて悩みました。釈尊はみずからの悩みが自我の問題であることにおそらく気がついていたと思います。しかし、両者の矛盾は自我で考えれば考えるほど、結論は出ません。自我が頼みにならないことが自覚された時、人は頼るべきものを失います。すなわちニヒリズムです。それこそが釋尊の悩みであったに違いありません。

 だからこそ、釈尊は出家してひたすらに自我と対決し,自我をつぶす修行に専念していくことになります

 釈尊は出家沙門として六年修業しましたが、それは自我との壮絶な対決でした。沙門の生活は無所有、無所得の生活にほかなりません。人間の自我、欲望を徹底して否定しさっていく生活であり、それは自我欲望との対決です。そうした沙門生活のなかで、釈尊は「苦行」を含む修行を続けていたのです。

 それでは、釈尊が否定した「苦行」とは何だったのでしょうか。釈尊は「六年苦行」したが、悟りを開くことが出来なかった。そこで「苦行」の無益なことを知ってそれを捨て、「瞑想」(禅定)に専念し、「魔軍を降し」、「成道」した、というのが従来の仏伝の大筋です。

 古代インドの宗教的行法として、苦行と瞑想は二本の大きな柱といっていいものです。両者は相互にかかわりながら発展してきています。インド語では、苦行といえばタパスです。苦行について精緻な研究をされた原実先生は、苦行は「節食のタパス」と身体を積極的に虐める「作為のタパス」に区別できると指摘されています。 その一方、原始仏典では、「ドゥッカラ・カーリカー」(難行)という言葉もしばしば苦行の意味に用いられています。「困難な―行為」ということで「難行」と訳されます。用法が重なる面があるので、両者を裁然と区別することは困難ですが、幾分の用法上の特徴は指摘できるようです。

 「苦行」(タパス)については、仏典の記述において、そして釈尊みずからにしても、ヒンドゥー教苦行者の「作為的タパス」とみられる行法と生活法は悟りには至らないものとして否定されています。しかし、同じ「苦行」(タパス)が、修行者としての自己抑制、感官の防護、頭陀行、忍耐、努力、そしてサンガの一員としての和合までも意味する場合には、賞賛されています。苦行(タパス)は否定されていないのです。

 タパスは当時のインド宗教界において重要な行法です。内容はさまざまですが、自我欲望を抑制する苦行はそれなりの評価がされていたに違いありません。釈尊としてもそれを否定する必要はありませんでした。釈尊もそして仏典も、苦行(タパス)を全否定していません。自我欲望を抑制することを積極的に「苦行」として認めているのです。当時の宗教界においては当然のことだったに違いありません。

 一方、「難行」(ドゥッカラ・カーリカー)という言葉は、「苦行」より広い意味で用いられており、呼吸の制御や節食・断食などの基礎的な苦行をも含んでいます。墓地に寝るとか暗夜に森で瞑想するなどの沙門として生活も一般的には難行に違いありません。「難行」は苦行(タパス)を含む行法とみていいものです。しかし、難行という言葉で仏典は、「作為のタパス」を否定しています。この場合、「苦行」(タパス)より「難行」の方が一般的のようです。

 なぜ、苦行(タパス)として否定するのではなく、わざわざ「難行」という言葉を用いたのでしょうか。これは推測ですが、「苦行」(タパス)の否定は当時の宗教界においてはあり得なかったことだったからだと考えています。タパスには種々の種類、段階がありますし、他宗教においてもそれなりにタパスは実践されていました。特に苦行が功徳を積むものであることは広く信じられていました。上に見たように、仏教徒もそれは否定していません。ですから、タパスを否定してしまうと、当時の一般的信仰、さらに精神性の高いタパスをも否定していることともなります。そうしたことから、苦行(タパス)ではなく難行(ドゥッカラ・カーリカー)が用いられたものではないでしょうか。

 釋尊の修行は「六年苦行」というよりも、「六年難行苦行」というほうが実際に近いものです。その間、釈尊は自我と対決し、真実をあるがままに受容できるよう自我を超える訓練をしていたのです。しかし、それでも悟りには到達しませんでした。「智慧が開けなかった」と仏典が述べているのは事実だったでしょう。そこで、釈尊は菩提樹下の瞑想に専念することになります。

 釈尊が「六年苦行」し、苦行の無意味さを知って「苦行を捨てた」という大雑把な表現は、釈尊の六年にわたる「難行苦行」の修行生活の意味を無視するものです。その原因の一つは漢訳仏典が「六年苦行」という成句を定着させたことにあると私は考えています。

 インドの仏典に「六年苦行」と成句として纏めた表現はありません。六年の間に難行、苦行を行い、捨てたものもあり、重視して行じ続けたものもあります。

 「六年苦行」と纏めると、苦行漬けの六年という意味が強くなります。苦行の種々の内容は捨象されて、身体を虐める「作為のタパス」が強く意識されてきます。そしてその苦行を捨てて、瞑想の生活に切り替えたと理解するなら、釈尊六年の修行生活を全否定することになります。

 必死に自我と対決した六年難行苦行があってこそ、釈尊の悟りはあり得たものです。

※本講演の詳細は、『禅研究所紀要』第四四号に収録された講演会記録をご参照ください。

愛知学院大学 フッター

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