愛知学院大学 禅研究所 禅について

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講演会レポート 平成28年度

禅と学生 ―禅を通じて学生と触れ合った30年―広島経済大学教授 岡本貞雄

 私は、居士として臨済宗の修行をし、高校時代から64歳の現在まで禅に取り組んでおります。その経験を、高校や大学での教員歴の中で、実践に反映させてきました。

 私の生まれは広島の基町ですが、父が転勤族で、心の中に故郷の原風景は持っておりません。そんな居場所のない人間が、高校生の時、学園紛争に遭遇しました。学生同士も争う中、酷く人間不信に陥りました。当時、宗教関係では古田紹欽先生と関口真大先生のご著書を読んでおり、ふと禅寺へ足を運びました。騒然とした日本の中で、別次元の静けさ。故郷のない私は、それを非常に懐かしく感じ、禅寺に通うようになりました。

 広島の三原、臨済宗の本山である佛通寺に、藤井虎山老師がおられました。老師は私に、「道を楽しむ」(道楽)という言葉で、焦って答えを求めないよう教えてくださいました。

 大学は、日本大学へ進学しました。教養部が静岡県の三島市に置かれており、三島には、臨済宗中興の祖、白隠禅師が開かれた龍沢寺があります。大学、大学院の10年間、学期中は龍沢寺で中川宋淵、鈴木宗忠の2人の老師のご指導を受け、休み中は広島へ帰り、藤井老師の教えを受けつつ過ごしました。

 また、松ヶ岡文庫の文庫長をされていた古田紹欽先生が、三島の佐野美術館に講演に来られ、それをご縁に、日本大学本部にある精神文化研究所での講義に出席するようになりました。うち7年間、『正法眼蔵』を読んでいただいたことは、大きな財産です。

 大学院の修士課程では、古田先生の勧めもあり、大正大学で一遍上人の研究をすることとなりました。大学院を修了し、職のないままアルバイトをしていた時、インド旅行の機会がありました。土産物屋の一人から、黒い石の仏像を買ったところ、それはブッダガヤの大塔の壁面に彫られた仏像を剥がしたものでした。修復は不可能ですし、返してもどうなるか分かりません。この時、「日本で若い人たちに坐禅を伝える会を開きますから、その時のご本尊として日本にいらしてください」という誓いを立てました。

 その後、広島へ帰り、広陵高校の教員を経て、禅会のお世話をしていたところ、岐阜県の正眼短期大学の講師となりました。そして、精神的教育の社会的ニーズを理解される副学長(現理事長)のおられた広島経済大学に、「東洋思想」の科目が設定され赴任しました。この時、先の仏像のこともあり、「この大学で禅が役立つのではないか」と心中期するところがありました。大学で、私の禅の逸話や心にまつわる話は大変受け、座禅愛好会ができました。そのうちゼミを担当することとなり、坐禅を条件として学生を受け入れました。

 私のゼミの坐禅会は、5泊6日で、年に1回の開催です。初めは禅寺、今は大学の研修センターを使用し、規則通りに禅寺生活をします。大広間を禅堂にして、数十人の学生が参加し坐るわけですが、通常の接心と違うのは、講演会の時間を設けていることです。この講演会は「いのちをみつめて」という題を付けています。

 私は、藤井老師から、「禅を道楽としてやれ」と教わるとともに、「いのちをみつめる」ということを学びました。「いのち」ということは当然、自分自身のいのちでもあり、森羅万象すべてを含むいのちです。それを見つめる、それを見つめ続け生き抜くことが禅なのだという教えです。それを講演会に生かしております。

 これまでの坐禅会24回の中で、ぜひお聞きいただきたいことがあります。学生は、坐禅会の1晩目は「痛い、つらい、酷い目に遭わされている」と思うそうです。ところが、2晩目から3晩目ぐらいになると、そういう反発の思いが消えます。先輩たちが朝起こしてくれ、食事の世話も全部してくれ、その中で坐らせてもらっていることに気がつく。痛い、つらいというのは当然ありますが、そういう環境を先輩たちから与えてもらっている。それに気がつくと、自分だけではない、多くの人に支えられている世界というものが広がってきます。それは代々、先輩から受け継がれているのだと気づくのです。そうすると、来年は僕たちが後輩のためにやってやるのだという気になって,坐禅会が終わります。理屈で言えば、何とでも言えるのでしょうが、これが坐禅のありがたさ、坐禅のすごみではないかなと思います。そういう「いのち」というか、「ちから」を坐禅は持っているのです。

 坐禅会以外にも、大学では7年前から、坐禅を授業科目にしております。また、ここ10年間、「オキナワを歩く」と題し、3日間沖縄の戦跡を歩いています。広島でも、被爆地を歩いて現地で話を聞いています。実はこれらも私に言わせれば禅の一貫なのです。歩いている間に、精神的に集中していって、心が沈静化していって、その中でふっと気づくことがあるだろう。それが出てくればそれでよしということです。

 学生と付き合ってきて教えられたことは、水のそばまで連れて行っても、意思がなければ水は飲めません。けれども水を飲まないと、われわれは生きていけない。いのちというものに気づかなければ、自分の人生は全うできないのです。それはあくまでも個人の作業によります。

 そうすると、われわれにできることは、飲ませることではなく、飲む意思を気長に育てることしかありません。それは、学生を大切に受容し、その気持ちを高めていくことであろうと思います。時には誤解され恨みを買うようなこともあります。それでも学生の将来を思い、寄り添っていくことに「いのちを見つめる」ことの答えがあるように思えます。

愛知学院大学 フッター

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