愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成11年度

禅と密教の接近 −十牛図と十住心−国際日本文化研究センター教授 頼富本宏

 今日主たる資料としてご紹介するのは、「十象図」「十住心」です。「十牛図」に関しては、密教では取りあげることはほとんどありません。

 昭和32年に梶山雄一先生がチベット版の「十象図」を見つけられました。禅の「十牛図」と「十象図」とどちらが早いかということは、非常に難しい問題です。

 絵の表現としては、「十牛図」のほうが10の場面を別に設定しますが、「十象図」のほうは、1枚の絵に1つの道程として表現するようになっております。そして象に変わっていることは、それほど大きなウェートではないのですが、人がいるのも共通ですが、猿がおります。

 猿は仏教学用語では「棹挙(じょうこ)」といいますか、心の高ぶりというものを表していますが、猿が段々と黒が白になってくるというのは、その高ぶりが収ってきて、そしてあるところからは猿がいなくなります。

 象に関しては、牛の場合とよく似ておりまして、段々黒が白になってまいりますが、いなくなることはないのです。その代わり、9番目に人間と象が蹲(うずくま)って、自然の状態になっています。

 これがある意味においては、心の停止というふうに自他を忘れるという捉え方ができないわけではありませんが、表現は少し異なっております。

 最後のほうになりますと、今度は道からいわゆる天国への道というものに進み神通を発揮することになります。

 ただこの「十象図」が密教かどうかというと、むしろ違うと言ったほうがよいかもしれません。

 これは大乗仏教の六波羅蜜によって段々と菩薩行を積み、特に般若の智慧により、道を歩む者の知的な努力、修練によって段々と心の高ぶりと、その沈み、・棹挙というものが次第に収められてくるという1つのプロセスを表しているものであるわけです。

 これがチベットでも相当長く、いくつかのセクトで用いられたということは、ある意味においては、インド伝来の比較的正統な仏教が、こういう形で残ったということを表していると思います。

 これはある意味においては、黒い象を段々と白く、あるいは牛が段々とコントロールされていくというと、直線的というふうに言えるかと思います。

 翻って密教のほうでは、心を考える場合どう押さえるかという点で「十住心」をご紹介しようと思います。密教は仏と私たちの間の異質性を極力差を無化していく、それが成し終えた状態を「即身成仏」という言い方で呼びます。空海は「十住心」を著作的には『十住心論』で表しております。もともと「十住心」の原型は、『大日経』であります。

 十心を宗派にあてたのは空海の外的なやり方であり、もともとの素材は、心の水平的・垂直的な連続性というものを説いたものです。

 本来ならカルパですから、時間をかけて乗り越えていきますが、煩悩を非常に大きな煩悩から小さな煩悩へ、段々と収めていくことによって、最後10段目の「秘密荘厳心」に到達します。

 空海は『大日経』を作り変えることによって、人と仏との間に心を通して階段を設定しようとしたわけです。

 「十象図」との接点で申しますと、どちらが近いかという解釈がありまして、心の捉え方を直線的に考えると、黒い牛が段々白くなる。それはある意味においては、階段を順番に上がっていくことになりますが、密教側の弱点として「人牛倶亡」の部分がないのです。

 人と仏を体系的に考える時に、単純に階段を上っていけば必ずそこへ着けるかどうか。その最後の1段を越えろというか、その辺のところがどちらかというと密教は楽観的であります。「十住心」では、最後の九住心から十住心に行く論理というのは、わかりにくいというか、結論だけ言っているようで、少し把握しにくい部分があります。

 その辺が密教の歴史の中でもやや弱いところです。そこで日本では、思想的には『大日経』『金剛頂経』が入っておりますから、それに基づいて行をするわけです。

 実際の実感体験としては、むしろ聖なる場所とか、聖なる時間とか、聖なる空間を行の中に設けていくか、あるいは手法の中に設けていくか、あるいは修験のように山の中に入ることによって、その時間、空間を限定した聖俗一致を説くかという、そういう個別の体系を生み出していったわけです。

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