愛知学院大学 禅研究所 禅について

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研究会レポート 平成23年度

トルファン漢語文書と大蔵経京都大学名誉教授 西脇 常記

 昔、中国の禅僧の語録を少し読んだことがあります。唐の黄檗希運(おうばくきうん)の法嗣(はっす)の睦州道明(ぼくしゅうどうみょう)が「如何是一代時教」の問いに対して「上大人、丘乙己」と答えています。この問答は、唐の禅僧が、漢字文化の世界に生きていたことを示しています。つまり、漢字で自己の考え、悟りの世界を表現し、伝えようとしたのです。禅ばかりでなく、仏教そのものが、中国では、漢字に翻訳されて理解されてきました。そして言葉は、思想を伝える手段というより、思想そのものです。漢訳仏教世界も中国思想世界も共に漢字を使っています。つまり、共通の思想基盤の上にあるということです。今日は、そのことを前提に、漢訳仏典のテキストである大蔵経についてお話ししていきます。

 ご承知のように、『大正新修大蔵経』(以下、『大正蔵』)の底本は、芝の増上寺の高麗海印寺版の大蔵経です。『大正蔵』には、「略符」で対校に用いられたテキストの異同を記載しており、「略符」に用いられているものの中に敦煌写本があります。20世紀の初めに、スタイン、ペリオ、大谷探検隊等が、敦煌・莫高窟(ばっこうくつ)の第17窟から持ち帰った大量の古写経です。特に『大正蔵』第85巻の古逸(こいつ)部・疑似(ぎじ)部は、敦煌写本に負っています。

 ところで、トルファン写本はこの「略符」には出てきません。その原因の1つは、『大正蔵』が編集され出版された1930年代の前半には、「トルファン文書」といった呼称はまだなかったからです。2つ目の理由は、敦煌文書は首尾の整ったものが多いのに比べ、トルファン文書は小さな断片であることによります。

 トルファン文書の特徴は、敦煌写本に比べ、より古い時代の写本を含むことが挙げられます。最近、創価大学国際仏教学高等研究所から『道行般若経校注』が出版されました。その校正テキストにトルファン文書も使われています。僅か9行の小断片ですが、この写本が非常に古く、400年前後のものと考えられているため、校正に用いられたのです。もう1つの特徴として、印刷本が多いことも挙げられます。敦煌文書の下限は11世紀の前半ですが、トルファン文書は14世紀にまで降り、印刷本が増えています。

 『大正蔵』の「略符」にある「宋本」「元本」「明本」は、すべて宋代以降に始まる大蔵経の版本テキストです。大蔵経の版本テキストは@『開宝蔵』(971−83に始まる)、およびその覆刻の『高麗蔵』(1011−82頃)と『金蔵』(1149−73頃)A『契丹蔵』(993−1002)B江南地方で雕ちょう刻されたいくつかの大蔵経、の3系統に整理されます。

 私は、ドイツ隊の将来した版本大蔵経断片を整理しているのですが、その数は1200ほどです。その中の9割以上は契丹蔵です。数枚の開宝蔵があり、残りが金蔵と単刻版です。契丹蔵と金蔵は『大正蔵』の「略符」には登場しません。北宋の開宝蔵は、10世紀末に日本にもたらされましたが、その後の契丹蔵や金蔵は、日本に渡ることはありませんでした。「略符」の中の「宋本」は南宋の出版です。つまり、「B江南地方で雕刻されたいくつかの大蔵経」が「宋本」です。契丹蔵や金蔵は、『大正蔵』が出版された時にはその存在は確認できていませんでした。

 契丹蔵は、1974年に山西省応県仏宮寺で12巻が発見されました。金蔵は、1934年に山西省趙城県の広勝寺から一蔵がほぼ揃った形で発見されました。1984年から出版された『中華大蔵経』の底本は、広勝寺本(1262)とチベットの薩迦寺北寺の大宝集寺本(1256)の金蔵を主として用いています。『大正蔵』は高麗再雕(さいちょう)本を底本にしていますが、再雕本が印刻された際には、初雕本を契丹蔵で対校しています。従って、『中華大蔵経』が出版されても、『大正蔵』の価値は色あせることはありません。

 私は現在、ドイツのトルファン文書の版本仏典断片の整理を行っていますが、ロシア人のクロトコフが現地で手に入れたものの中に多くの木版仏典断片が含まれていることに気づきました。その中には、契丹蔵、金蔵も含まれており、ベルリン断片整理には必要と思い、昨年夏、サンクトペテルブルグに見に参りました。その最大の収穫は、クロトコフの収集品とベルリンのコレクションには接続できるものがたくさんあるという発見です。クロトコフは中央アジアに派遣された役人で、政府の命令通りに文物を買い集めたのですが、ドイツは4回、探検隊を派遣し、発掘調査を実行しています。結論としては、ドイツのコレクションも、全てが発掘品ではなく、現地の人から購入したものも含まれているのでしょう。

 20世紀末に初めて発見された契丹蔵を利用することによって、トルファン文書に多く含まれる契丹版断片の版式等、新しいことが次々分かってきました。今日は、それにもっと時間をかけるべきでしたが、最も重要なメッセージが伝わったか、いささか危惧しております。 (河)

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