愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  平成28年度

道元禅師と他力(著・日野紹運)

他力法門の一僧侶として道元禅師のお言葉にふれてみたいと思う。

地元での花まつりとか追悼法要といった、仏教会主催の行事では、諸宗派が聖道門と浄土門に分れて、それぞれの差定(さじょう)でもって法要が務まっていくのが通例である。共通の経文がないというがその理由で、般若心経を読経するのが聖道門で阿弥陀経の六方段または讃仏偈を読むのが浄土門である。実にはより厳密に阿弥陀仏の浄土でさとりを得る教え以外はすべて聖道門といわれることさえある。またその二門流を自力聖道門、他力浄土門とわざわざ自力、他力と添えていう。

宗旨ではさらに三願転入(さんがんてんにゅう)といって、自力諸行の行者を往生させるための第十九願、自力念仏の行者を往生させるための第二〇願、そして他力念仏によって浄土往生していくのが第十八願だというのである。しかも先の二は化土往生なので捨てるべきで、第十八願往生のみに依ることを説く。

信心決定また本願信受の場面を「本願を聞く」「名号を聞く」というが、それは「聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」のときである。それはまた捨機托法(しゃきたくほう)のときである。自分を善人と思うものに仏願の生起は分からない、その結果として自己をたのむ心がある。この自己の努力への執心と信頼感が自力心である。その無力なことを知りそんな自己を捨て、阿弥陀仏にまかせる心がおこるとき仏の慈悲が領解される。

「仏心とは大慈悲これなり」(『観経』)というが、この仏心が仏願力として本願・名号となりわたしのもとに届いているのである。これを仏力、仏のはたらきあるいは本願のはたらき(本願力)という。そして「他力とは如来の本願力なり」(『教行信証』)、本願名号正定業(しょうじょうごう)(『正信偈』)といって、名号のはたらき(本願力、仏力また仏願力)が「行」なのである。「行」というとき、それは仏の側で行われるはたらきであって、これを他力というのである。

宗旨では自力をまったく勧奨しない。禁戒、勧戒といった倫理的、道徳的項目すらいわない。かえって自己をたのむ心が増大され、あきらめ捨てることがそれだけいっそう困難になり、結果捨機托法から遠のくだけというのである。そのように薫習された真宗僧には、道元禅師について只管打坐、修証一如でさえ聞きかじりで、坐禅は自力諸行の最たるものにしか映っていなかった。そんなとき、たまたま早島鏡正著『親鸞聖人と恵信尼公文書』(文明堂・昭和56年)で次の一節に出逢ったのである。心が躍り、やはりと思い、そしてなぜかほっとした憶えがある。

「世間では禅宗というと自力の教えであり、聖道門であって、浄土真宗は他力であり易行道であると、両者を区別しています。けれども、これは表面上の言いまわしであって、禅というも真宗というも、全部、仏力・他力によらなければ、成仏できないということを、はっきり道元禅師もおっしゃっておられます。『正法眼蔵』の第九十二「生死」の巻において、このように述べています。「この生死はすなわち仏の御いのちなり。……ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれて仏となる」道元禅師は、われわれの仏道修行が、さとりのなかにおいてなされている旨を説いているから、すべてが仏力によるという立場にあることは明白である。親鷲聖人は、浄土のみ教えに即して、阿弥陀さまの他力の世界を明らかにしようとなさいました。道元禅師は、只管打坐という坐禅の世界を通して、他力の世界を明らかにしようと努めました。そうしてみると、親鷲聖人がいかに立派なおかたであり、他方、道元禅師も偉いおかたであるということが、おわかりになったと思います。」(41142頁)

わが身の無力さを知り、自己のはからいを捨て、自己投企し、仏にまかせる心の起きるとき(「仏のいえになげいれて」)仏力がはたらいて(「仏のかたよりおこなわれて」)自力がはたらくこともなく(「ちからをもいれず」)……仏となる。以上、先に述べた本願信受の局面とほとんどパラレルに理解されるのである。次いで、自力のことを少しく述べてみたいと思う。

仏力によってさとり(本願信受また身心脱落)が現成する局面での自力の要不要の好対照に驚かされる。真宗では第十九願では「菩提心をおこして、もろもろの功徳を修め、……わたしの国に生まれたいと願うなら……」と浄土往生を願って善根功徳を積む自力諸行の行者をいうが、ついには、「自己をたのむ心」すなわち自力心が疑心となり、最後まで根深い障礙(しょうげ)となって厳存する。一方、只管打坐とは発心・修行・菩提・涅槃を通じて、日常の行住坐臥にわたる一挙手一投足が参禅であり修行であるとの意である。その日々の、一瞬々々の行為に「自己をたのんで、ためにする」自力の行の意趣は感じられない。ましてや証上の修といい、さとりの後も修行は涅槃また命終の時まで続いていく。そもそも、そこでは発心のときから(真宗のいう)自力とか行の主体とかが問題とされることはないのである。

(文学部教授)

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