愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成10年度

本来本法性、天然自性身(ほんらいほんぽっしょう てんねんじしょうしん)(著・所長 中祖一誠)

 ひとが一己の求道者としての道をあゆみはじめるに至る動機は、それぞれに個性的であります。身近な肉親との死別を直接の機縁としてこの道を辿る場合もあれば、一片の飛花落葉の景に無常の思いに駆られる場合もあります。さらにまた、天災地変、国家的規模の動乱や、それに起因する社会秩序の崩壊や経済の破綻などであることもあります。

 人間存在の根底に巣食う迷妄の闇を打ち破るべく出家した釈尊の「四門出遊」の仏伝記事や、禅の初祖達磨の膝下に安心(あんじん)を尋ねた「慧可断臂(えかだんぴ)」の伝承はよく知られています。道元禅師とほぼ同じ時代に生きた鎌倉仏教の祖師たちの出家求道の機縁となった事情も、それぞれに個性的であるということができます。

 仏教伝来このかた、中国からの直輸入のかたちでわが国に受け容れられてきた仏教は、国家の態勢が整備されるにしたがって、次第にわが国に定着してまいります。とくに比叡山を中心にして、学問仏教の隆盛をもたらしてきます。道を求める学僧たちは、競って比叡山に登って仏教の教学を究めていきました。法然をはじめ、親鸞、道元など、新しい仏教をやがて築いていく新仏教の祖師たちもそのような学憎たちでありました。

 幼少の時すでに父の死に遇い、8才にして再び生母との死別を体験した道元は、貴顕の家系に生を享けながらも、人生の悲哀をつぶさに感じて、涙したことは想像に難くないことでしょう。『三祖行業記』の伝えるところによりますと、「慈母の喪に遇ひ、香火の煙を観て潜(ひそか)に世間の無常を悟り、深く求法の大願を立つ」と述べております。道元の求道の動機に、両親とくに生母との死別が強くはたらいていたことは確かなことと思われます。母方の叔父の庇護のもとに、世間的に恵まれた将来が開かれる可能性は十分にあったはずですが、道元は出家の道を択びます。13才の時、意を決して比叡山に登り、翌年には天台座主公円に就いて出家得度を果たします。この比叡山における修学の時代に、道元は生涯の大きな疑問に逢着することになります。

 当時の比叡山は多くの学匠たちが互いに教学上の知識を競い合っていましたが、なかには当代の名僧知識となって天下に名を馳せ、名聞利達を求めることに汲汲としている憎達も多くいました。このような山内の状況のなかにあって、かれはひたすら経論の研究と『高僧伝』、『続高僧伝』などの伝記類の渉猟、耽読に専念していきます。その過程で、大いなる疑問に直面することになります。

 『建撕記(けんぜいき)』によりますと、「顕密二教ともに談ず。本来本法性、天然自性身と。若(も)しかくの如くならば、三世の諸仏、甚(なに)によってか更に発心して菩提を求むるや」と述べています。つまり、われわれは本来すでに仏性を具えており、その本性は清浄であるのに、なにゆえに3世の諸仏たちは発心して更に悟りを求める必要があるのか、という問題です。人間が本来法性を具えた存在であるという教学上の真実と、法性を有する人間が修行を重ねて行かなければならないという実践的命題が、いかにして一己の人間において会通(えづう)しうるかという宗教の本質にかかわる疑問に道元は逢着いたします。われわれがひとしく仏性を具えた存在であるならば、みずから菩提を求めて修行することの意義は一体どこにあるのかといったような自家撞着に陥つてしまったことになります。やがて後年、道元の禅風の根幹をなすことになります”修証一等”、 ”只管打坐”の課題は、実にこのときに始まったということができます。まさしく、”大疑現前”ということができましょう。

 この疑団をかれは、三井寺の学匠公胤に質ねます。しかし、公胤はこの問いに直接には答えず、宋より帰国してまもない建仁寺の栄西を訪ねることを勧めます。もっとも、この公胤との相見(しょうけん)、そしてかれの勧めによる栄西との正式の相見は、史実としての疑問が古くから指摘されていますので確かとはいえませんが、とにかく道元は建仁寺に拝錫(はいしゃく)して禅の修行に打ち込んでまいります。とくに栄西の高足、明全に師事して臨済の禅風に触れて、新しいあゆみをはしめてまいります。

 その後、師・明全に従って入宋いたします。入宋の後、みずからの眼で中国禅林の諸山を巡錫しつつ、正師を尋ねて遍歴を重ねていきます。しかし、当時の中国では宋朝禅が隆盛をきわめておりました。それには、「教外別伝」派とか「教禅一致」派などと呼ばれるものがありました。それらは、仏祖伝来の面目を軽視して、恣意的に勝手な禅を鼓吹したり、また安易に儒・仏・道三教の帰するところは結局一つに帰するなどと説く、独断と妥協の禅風に堕していて、すでに活力を失っていました。これは求道の人・道元の納得しかねるところでした。

 入宋後、2年にして機熟して、天童山において如浄禅師に相見する機を得ます。時に宝慶元年5月のことです。これが運命的な出合いとなることになります。如浄は初相見の場において、「仏仏祖祖面授の法門現成せり」と道元を称えて、日本からの若き留学僧に大いなる期待を寄せています。このことばは道元の力量の非凡さを即座に見抜いたことを端的に示しています。道元は渡宋二年にして、漸く生涯の師との相見を実現したことになります。

 同年の夏安居(げあんご)の終わりをつげる頃、暁天坐禅の巡堂をしていた如浄は、ひとりの雲水が坐禅中に坐睡するのを咎め叱咤して、「参禅は須く身心脱落なるべし。只管に坐睡して什廳(なに)を為すに堪へんや」と大喝して警策(きょうさく)を振います。そのかたわらで坐禅工夫に専念していた道元は、豁然として大悟します。坐禅後、道元はただちに方丈に上り、恭しく焼香礼拝いたします。如浄は「焼香の事、作麼生(そもさん)(何のための焼香か)と問います。道元は「身心脱落し来る」と答えます。すかさず師は、「身心脱落脱落身心」。道元「這箇(これ)は是れ暫時の伎倆(ぎりょう)、和尚乱りに某甲(それがし)を印することなかれ」(簡単にこのわたしを印可めさるな)。師「吾乱りに爾を印せず」。道元「如何なるか是れ乱りに印せざるの底」。如浄「脱落脱落」と、道元の悟境に印可の証を与えたのであります。この参学の大事を悟了した後、師・如浄より「仏祖正伝菩薩戒脈」が授けられます。道元は如浄のもとに留まること2年あまり後、漸く帰国の途に就きます。

 1227年秋、28才、帰国した道元は建仁寺に暫く留まり、その後31才のとき宇治深草の安養院に移り、さらに37才のとき観音導利興聖宝林寺を開創して僧堂開単にこぎつけます。このようにして本格的な禅風宣揚の足ががりを築きます。

 僧堂開単の祝国開堂の法語は、「山僧叢林を歴ること多からず。只是れ等閑(なおざり)に天童先師に見ゆ。当下に眼横鼻直(がんのうびちょく)を認得して人に瞞(あざむ)かれず。便ち空手にして郷に還る。所以(ゆえ)に一亳も仏法無し」と述べている。このなかに、新しく禅仏教を標榜せんとする道元の意気込みが躍動していることをうかがわせるものがあります。
もっとも、この祝国開堂の法語については、近年ではさらに数年後の上堂語とも考えられる面もあり検討の余地のあることも事実ですが、文面に漲る高揚した雰囲気には、禅仏教新生の意気に燃える道元の真骨頂がいかんなく発揮されているといわねばならないでしょう。

 比叡山における修学期に逢着した「本来本法性、天然自性身」という大いなる疑団は道元の身心のなかで、苦闘と呻吟を繰り返しながら、「当下に眼横鼻直を認得し」、「一亳も仏法無し」という諦念にまで究め尽されたということができます。では、このような諦念はいかにして実現することができるのでしょうか。
道元はそれを可能にする必須の要件として「発菩提心」ということばを述べております。文字通りには菩提、すなわち解脱を得たいと願う心のことです。しかし、ただ頭の中でそれを願うだけでは全く意味がありません。一切の思惑や量見といつかものから離れなければ堂々回りを繰り返しているばかりです。そこで道元は、「菩提心とは一心である」とか、「吾我を離れよ、我見、我執を離れよ」ということばを繰り返します。また「世間の生滅無常を観ずる心も亦菩提心と名づく」と強調します。つまり、自己意識の場を突き抜けて、自他の境界を踏み越えたところに開けてくる地平にまで徹していかなければならないことになります。「本来本法性、天然自性身」ということも、この境位においてはじめて意味をもってまいります。ここに道元の徹底した世界超越の姿勢がうかんでまいります。「修」と「証」の弁別や、「煩悩」と「菩提」の対置を離れることが求められることになります。「修証一如」、「只管打坐」といった道元の仏法のキー・ワードは、究極的には「発菩提心」の別の呼称ということになります。

 比叡山における弁道のさなかに体験した「本来本法性、天熱自性身」の大いなる疑問を抱いて下山した道元は、京洛での苦悶のはてに入宋、遍歴の末に天童で如浄との相見の機縁をえて、ついに多年にわたるこの疑団に終止符を打ちます。帰国後、京洛の地にあって、早速『普勧坐禅儀』をあらわします。真実の仏法が菩提樹下の釈尊の端坐正覚の体験にあることを明かし、”只管打坐”の仏法を宣揚します。当時わが国では、伝統的に比叡山で行われていた「四種三昧」の禅法が中心でしたが、道元はこれに独自の立場を打ちだしました。その後、「弁道話」、「現成公案」など、後に集大成されていく『正法眼蔵』の総序の位置を占める著作が堰を切ったように書かれていきます。そこでありのままの流転生死の現実世界が仏道の究極の課題の対象であることを説き明かします。しかし、このことを体現するのは「自己」をおいてはほかにありません。「自己」の探究は自己を放擲してはじめて輝きを発します。そのとき、現実世界(万法=まんぽう)が、”仏法”としてわたしたちの前にあらわになってきます。「本来本法性、天然自性身」という道元の疑団はここにきわまります。まさに”現成公案”の世界が開けてくることになります。

 (文学部教授)

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