愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成12年度

天女降華 ―無執着のすすめ―(著・所長 中祖一誠)

 『維摩経』という経典の「観衆生品」につぎのような挿話がでてきます。「維摩詰の室に一天女あり。諸の天人を見、所説の法を聞きて便ちその身を現わし、天華を以って諸の菩薩・大弟子の上に散ず。華、諸の菩薩に至れば即ち皆堕落す。大弟子に至れば即ち着きて堕ちず。一切の弟子、神力をもて華を去れども去らしむること能わず」とあります。

 ここで維摩詰(ゆいまきつ)という名前がでてきますが、これはこの経典の主役を演ずる在家の居士(こじ)の名前です。しかし、この場面では直接には関係いたしません。とにかく、この維摩詰の部屋の中が舞台となります。多くの菩薩や大弟子たちの、釈尊の傍近くで平素修行に励んでいる人たちが坐禅を組んでいます。そこに一天女が現れて、頭上から花びらを撒きます。すると、菩薩の頭上に降ってきた花びらはするすると肩を滑って地面に落ちてきたのですが、大弟子たちの上に撒かれた花びらは、なぜか仏弟子たちの頭上といわず肩といわず、皆ぴったりとくっついて離れようとしません。仏弟子たちはそれを懸命に払い除けようとしますが、いたるところにくっついて一向に取り除くことができません。弟子たちはいよいよ慌ててしまいます。これは何を言おうとしているのでしょうか。

 釈尊の教えでは、戒律として修行者は香華などの飾り物を身に着けてはならないとされています。香水や華飾りなどの装飾品は修行の妨げになるとして禁じられています。現在でも、東南アジアの仏教圏の比丘(びく)たちはこの戒律を忠実に守っているといわれます。世俗の欲望を退けて修行に専念することの意義は、それはそれとして比丘たちにとって尊いあり方であります。戒律を重視する釈尊以来の仏教の伝統を規範とする南方の仏教では当然のことです。

 ところが、仏教の伝統にはそれとは異なった考え方に立脚する仏教があります。大乗仏教と称されるものがそれです。釈尊の時代から数百年ほど経った時代になって、従来の厳格な戒律重視の仏教とはスタイルの違った仏教が興ってまいります。世俗の生活の中に宗教的意義を認めようとする大乗仏教が現れてきます。冒頭に挙げました『維摩経』はこのような立場に立つ初期の経典の一つです。

 さて、この経典にこの“天女降華”の挿話がでてくるのはどういう意味をもつのでしょうか。日夜修行に明け暮れる修行憎(比丘)は、釈尊の教えに背くことなく、戒律を忠実に守り修行を深めていくことに意義を認めて、俗世の関心事に心を奪われることなく動めなければなりません。このような求道の姿勢自体はまことに崇高であるのですが、そのために世俗と出家のあいだに差別をおいて、後者の道が前者の道より尊いと思い込むことになると問題となります。大乗仏教が興った動機のーつがこの点にあったといえます。大弟子たちはいずれも釈尊の膝下に侍(はべ)り、目他ともに道心堅固の士と認める仏弟子の中の代表であります。十大弟子で知られる阿難尊者や舎利弗尊者などです。これらの大弟子たちは、自ら目負の心を抱いていたかも知れません。このような自負の心が出家と世俗とを弁別していることを戒めているのがこの経典の趣旨です。

 一方、菩薩たちはこのような差別の心を超越して自他の区別なく浄・不浄を離れて修行に努めているのですから、いくら上から花びらが降ってきても粘着することがないのです。花びらは頭や肩を滑って地面に落ちてしまいます。どうやらこの経典の意図するのは、花びらが大弟子たちのからだに着いて落ちないのは花びらの側に非があるのではなく、大弟子たち、ひいてはわたしたちの側にあることを語っているようです。たとえいかに崇高な心掛けであっても行為であっても、当人の側に執着するところがあったならば迷いとなり無益だということを教えているといえます。

 この経典の中で大弟子とされている人びとのことを阿羅漢(あらかん)といいます。原意は“尊敬に値する、布施を受けるに値する聖者”を意味しますが、大乗仏教の立場からは、自己の解脱のみに関心を寄せ、利他の心をもたない独善的な修行者ということになります。これに対して菩薩は“解脱を求めるもの”とか“解脱を具えたもの”と解し、とくに悟りをすでに具備して世俗の人びとの救済に努める人びとを意味します。世俗の人びとに手を差し延べるためには、まずさきに聖俗、美醜、浄不浄の思いから離れなければなりません。『維摩経』はこのような無執着のあり方を説いているといえます。この経の「観衆生品」という章は、衆生をいかに観るべきかをテーマとして構成されていることになります。

 現代はまさしく“痛める社会”といってよい時代であります。わが国も大戦終結このかた半世紀のあいだに、敗戦の荒廃からの驚異的な経済復興を遂げ、いっときは繁栄をほしいままにした時期もありましたが、やがてバブルの崩壊、金融破綻などの苦渋を体験し、いまだ曙光を見いだせない状況にあります。溢れる“モノ”の洪水に身をまかせて、慢性化した欲望と消費の再生産から脱却できず、不安のただ中を浮沈しているといえます。このようか現代の状況の徴候の源を辿れば18世紀後半の産業革命にさかのぼることになります。“最大多数の最大幸福”の人類共通の夢は、その後の科学・技術の発展の恩恵により驚異的な繁栄をもたらし、当初はこの人類の夢を叶えるかにみえた感もありました。しかし、やがて富の不均衡、大量失業による社会不安、そして大戦の誘発などの世紀末の状況をもたらしました。そして、その後また100年を経過して再び人類は世紀末の状況に直面したままの状況にあります。

 かつて日本に来たこともあるエーリッヒ・フロムというアメリカの社会心理学者が、いまから20年あまり前、『持つことかあることか』(To have or to be)という書物を著しています。「持つ様式」の生き方と「ある様式」の生き方の違いを論じて、現代がまさに「持つ様式」の生き方の時代であると批判しています。さきにいいましたように、わたしたちが大量消費社会にどどっぷり浸りきって、“モノ”を所有することにあくせくしている現代の状況のことをいっているのです。これに対し、「ある様式」の生き方は、“モノ”を所有することよりも、この世に“いかにあるか”を追求することに意義を見いだすことをいいます。イエスしかり、ソクラテスしかり、老子しかり、なかんずく無執着・無我を説くブッダこそ、この「ある様式」の生き方の典型として賞賛を与えています。このような後者の生き方こそ、現代の“ヒズミ”を克服する唯一の道であることを提唱しています。

 フロムは、さらに禅仏教の西欧社会への紹介に生涯を捧げられた鈴木大拙師の文を引用して仏教の“無執着”の生き方に賛意を示しています。ここにそれを再録して紹介してみましょう。それはテニスンの詩と芭蕉の俳句の比較を通して、西洋と東洋の心のあり方の違いを指摘しています。

 ひび割れた壁に咲く花よ
 私はお前を割れ目から摘み取る
 私はお前をこのように、根ごと手に取る、小さな花よ
 -もしも私に理解できたらお前が何であるのか、根ばがりでなく、お前のすべてを-
 その時私は神が何か、人間が何かを知るだろう
 〈テニスン〉

 眼をこらして見ると
 なずなの咲いているのが見える
 垣根のそばに!
 [よくみればなずな花咲く垣根かな]
 〈芭蕉〉

 ここで、テニスンはどうやら自分の関心の対象である花を“所有する”ことに心を向けているようです。そして、その花を摘みとり、根ごと手に取ることに興味を示します。つまり、少しおおげさな言い方になりますが、“破壊する”(摘み取る)ことに“所有する”(根ごと手に取る)ことにこだわっているかのようにみえます。フロムはここに科学・技術の長所と短所とを認めているようです。一方、芭蕉の俳句では、作者はもっぱら“見る”ことにだけ関心を寄せています。この作者は花と花の咲いている垣根と一体化すること、ただ自然と“対面すること”に意識を留めるだけで終始しているようです。芭蕉の場合には花を“所有する”とには全く関心がうかがえません。フロムはこの俳句の中に無執着のよりどころを認めていることになります。むろん、この2つの詩歌は、詩歌として味わうことで十分であって、それ以上のことを求める必要はないのですが、人間の生き方、あり方を象徴的に示している好例になると思います。

 所詮、人間も生物です。生きていくために食を摂り、モノを所有することから完全に離れることはできません。しかし、無制約な欲望の充足だけで満足してはいけないことも事実です。“持つ”ことから“ある”ことへの転換が図られなければならないと思います。 

 このような点から考えてみますと、東洋の思想や宗教、なかんずく禅仏教には学ぶべきことが多いといえます。江戸期の禅僧であり、詩人としても名高い良寛の残した漢詩の中につぎのように詠まれています。

 花無心招蝶
 蝶無心尋花
 花開時蝶来
 蝶来時花開
 吾亦不知人
 人亦不知吾
 不知従帝則(法・摂理)

 この詩で、花も蝶もともに地上に生きる生物として、文字通りには、“無心”に互いを求めているわけではありません。生の営みを完うする意図のもとに互いを招き、尋ねています。しかし、このようにこの詩を理解しようとするのは、さきに述べた“待つ様式”の理解になります。良寛はそのように詠んだのではなく、ただ”ある様式”でこのような詩を詠んだとみるべきでしょう。わたしたちも同じくこの境涯でこの詩を味わう必要があります。禅の原風景もこのことのほかに求めても見いだせないことになります。「不知従帝則」の結びの句ををじっくり味読しなければならないと考えます。

 (文学部教授)

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