愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅滴  平成25年度

禅を活かす(著・所長 岡島秀隆)

 先週母にあった。およそ一週間ぶりの面会である。一年程前に自宅で倒れてからふたつの病院をへて、今は介護老人施設にいる。車椅子が不可欠になってしまったので、リハビリでの回復をわずかに期待しつつ現在の施設にお世話になっている。隣が病院なので安心感もあり、家族の負担も考慮して決断したのだが、週一回のペースでおよそ40分かけて様子を見に通っている。今のところ本人の病状も安定しており、家族の日常も、介護による過剰なストレスのかからないように心がけながら暮らしている。長期戦である。最近は眼鏡があわないと言ってとなりの病院の眼科にかかって検査をし、その検査結果をもって眼鏡屋に連れてゆけといい、差し歯が折れたといって、これも病院の歯科で治療を受けるから治療代を頼むと電話をかけてきたり、家族も対応になかなか忙しい。本人は寂しさもあり、退屈さもあり、我がままもありで、至って人間らしく生きている。それが今回に限って唐突に質問を投げかけてきた。「ヒトは何のために生きているのか?」悲しそうに言う訳ではなく、実に真顔で、問いかけて来るのである。禅問答である。少し冷やかし半分ないたずらっぽい表情も見え隠れる。その辺はこちらもお見通しである。わたしは咄嗟に「ひとはひとのために生きるのが一番幸福なんだ」と応えた。母は「そうかな」といって納得しない様子である。わたしの応答にはその当時読んでいた本の主張が反映されていた。その本とは脳科学者の中野信子という方の書いた『脳科学からみた「祈り」』というものであった。この本の中で、中野さんは脳内物質の「オキシトシン」という物質に着目している。この物質は「愛情ホルモン」との別名でも紹介されているのだが、それは愛おしさの感情を生み出すもとになっているもので、母親が赤ちゃんに母乳を与えているときなどに、多く分泌されるもののようである。最近の研究では赤子に対するとき、父親など男性の脳内でも分泌が確認されているようである。さて、中野さんの主張によれば、この物質の分泌は他者のためにつくす場合にも分泌されるから、仏教的利他行はもとより、一心に他者のために祈る場合にも分泌されている可能性があるので、他者の幸福を願う人間はそれだけで幸福感が増大すると言うのである。私としては仏教的利他行の主体もしくは全ての宗教的祈りの主体への心理的効用のひとつが科学的に立証されたのであれば、大変望ましいことと考えた訳で、母の唐突な問いかけの折に、その記憶が蘇ったのであった。昨夏板橋興宗禅師と「セロトニン道場」代表の有田秀穂先生の対談で、脳内物質「セロトニン」の話をお聞きしたことも遠因であったかもしれない。それにしても最近の脳科学の進展はすばらしく今後も注目してゆきたい。

 ただ、他者のためにという時の他者の語の意味には少し分析が必要なのではないかと思う。端的に言って他者がどのような対象を指し示すのかは、意見の分かれるところである。それが親しい隣人関係にある者をさすのか、それ以外の不特定の第三者も含んでいるのかといった違いも問題になるだろうが、その言葉が、動物やはたまた、神のような不可知の超越的存在者をさすものかは、さらに重要な問題に見える。仮に他者のために何かをなすといった場合、意識的にか無意識的にかは判らないとしても、人間の他者のために行うのと、神的存在者のために行うのでは、その行為者の内面に生じる事態は同じなのだろうか。利他の行為をどのような相手に対しても同じように行えるのか、そこで感じる高揚感や満足感に違いはないのかといった問題は、これまでにも議論されてきたと思われるが、なかなかに難しい問題なので機会をあらためて考えることにする。だが、次の見解には留意しておこうと思う。中野さんによれば、他者への行為が何らかの評価とともに行為者への感謝といった形で帰ってくるときはもとより、そうした見返りがないときでも、その行為が行為者自身の中で充分に正当化されているような場合は、同様の効果が期待できるというのである。それは言うなれば「無償の愛」である。そしてそれは、人間の他者に対してなされても、神的存在に対して行われても行為者自身の内面を充分に満ち足りた気持ち、幸福な充足感で充溢するというわけである。しかし、それは「きっと他者のためになる」という独りよがりの思いに基づいた行為であっても、幸福感を味わえるということを含意しているのではないのだろうか。そうなると、利他行ということも軽々に善しとできないような気がするのである。要するに、利他の行為にも、深い倫理的規範が事前に備わっている人格を前提にしなければならないということであろう。

 ところで、帰宅してからも、かの質問への応答が気にかかっていた。まるで一箇の公案に取り付かれたようで、公案の思量というのはこういうことなのかと考えつつ、いろいろと先人の智慧を探そうとしたが、次の日に法事があったことから、そのイメージトレーニングを何とはなしに始めた時、『修証義』の冒頭を口ずさんでいた。そこで思った。「ここにちゃんとヒントがあるじゃないか」と。「ここをしっかり解明したらいいじゃないか」と。『修証義』とは、明治23年に曹洞宗の教えの根本を在家信者に分かり易く示すことが目的で作られ、道元禅師の『正法眼蔵』の中から、有益で平易な文を抜き出して再構成したものである。

 それでこの『修証義』の説示を取り上げてみると、その第一章第一節は「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」の言葉で始まる。実にこれから伝えようとする宗教的説示の真剣さと内容の只ならぬ厳粛性の予感を、率直さと格調をもって示そうとした冒頭である。つまり、「生とは何か、死とは何かを明らかにすることは、仏教者の最重要課題である」というのである。生死の解明はしかし、偏(ひとえ)に仏教者の課題なのではない。思惟する人間一般がどこかでぶつかる共通課題である。こうした課題を我々はどこかで置き忘れ、忘却してしまうのだが、生死の解明はならずとも、それへの問いかけには、どこかで必ず回帰することになる。自分の生にどのような意味があり、どんなときに自分の生は真の光明を放つのか。死とは何か、死後の世界はあるのか。こうした問いを発し考える時間への回帰の契機を、この一節は与えてくれるのである。ところが、そこに回帰するや否や、我々は俄然不安になる。解らないという事実を受け入れることができない高慢な人間には益々不安が増大する。続いて、次のような文が綴られる。

「生死の中に仏あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし」

 ここはおおかた、次のような意味である。つまり、「生死の世界の中に、仏がいるならば最早生死の問題に迷わされることはない。仏の教えに従って、ただ「生死即涅槃」であると信じ受け入れて、生死を厭わしく思うべきでもなく、涅槃を欣(ねが)わしく思うべきでもない。そう思い切った時、初めて生と死へのさまざまな拘(こだわ)り煩(わずら)いを離脱できる可能性ができるのである。恐れることなく願望することもなく平常の心をもって、ひとえに現前の因縁世界を究め尽くすべきである」といったところであろうか。

 この説示において、今の私に最も問題と思えるのは第二節の文言である。この生死の世界に仏があればという仮定からはじまる文である。この文意を考えてみると、仏という存在がこの世界に現存するということを事実として信じるのでなければ、生死の真実を理解し、そこからまやかしの生死の姿を否定し超越することはできない。つまり、何も始まらないのである。もっと言うと、世界についての仏の教示自体を受け入れること、仏の世界観を受容することがなければ、この説示は成り立たないわけである。この現実の生死の世界に仏が出現して教えを説いたことを、そしてその教えの内容すべてを受理した時に、真の「安心」が訪れるということである。あとは仏説に従ってゆくだけである。結局は信心が安心の核心なのである。ここのところを自得するというのが肝要であると今度は母に応えようかと思う。

 ただ、『修証義』の第一章第二節は、このように続く。

「人身得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇ひ難き仏法に値ひ奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒らにして、露命を無常の風に任すること勿れ。」

 現代風に要約すれば、「人の身として生まれるということ自体容易でないことであるが、しかも仏の教えに出会うというのは古来稀なことである。我らは何たる善い星の巡り会わせか、それらが適ったのだから、今生は最も勝れた絶好の機会である。それを無駄に過ごしてはならない」ということである。過去の善業、重ねられた善根をいう「宿善」の概念に違和感を感ずる者もあるだろうから、「星の巡り会わせ」という古典的表現に力を借りようとしたが、これはこれで運命論的臭気が強く上手くないかもしれないがお許し願いたい。ともかく、このようであるとすると、比較的若い時期にこういう教えを耳にして後悔のない生き方を心掛けるというのが望ましいが、たとえそうでなくとも、そう気付いた時がまさにいつでも好時節であると納得するしかあるまい。それが「日日是好日」ということであろう。『修証義』は仏道の指南書であるから、仏道への入道を説くのは至って自然の成り行きであって、ここの文を「いつでも毎日が発心入道の好時節」の意味であると解するのが正しいけれども、もっと一般的に、悔いのない人生とは何かを真剣に考えて、言うなればそういう「人道(にんどう)」に入道するということがあってよいし、毎日毎時がその転換の機会であってよいという解釈を行うところにも意味があると思うのである。確かに、人の価値観は多様であって、悔いのない人生という言葉の示す意味は人によって異なる。しかし、突き詰めてゆくと、おそらく究極的に仏道と人道は深い繋がりを持っていると考えられる。このように『修証義』の言葉を手掛かりとして人生・生死を考えるチャンスを与えてくれた母の問いかけに今は感謝している。

(教養部教授)

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