愛知学院大学 禅研究所

愛知学院大学 禅研究所

参禅会体験記  平成11年

本研究所では、毎月第2火曜日午後4時30分から火曜参禅会を開催しています。
本学の教職員や学生ばかりでなく、学外の方や外国の方も参禅に来られます。経験の有無にかかわらず、関心のある方は、お気軽に禅研究所までお尋ねください。
以下に、参禅会員の体験記を紹介します。

伊東 徳義

禅と生活

 本学院の開放溝座の聴講生として3年を過ごしました。開講式の日に禅堂を案内していただき、参禅会員にしていただきました。立派な禅堂、そのまわりの枯山水、森の深さ、野鳥がわたり、風がわたる幽境の道場、始めて禅堂に坐した感動を今も忘れることなく続けさせていただいております。その間、所長先生をはじめ研究所の皆様の優しい御指導をいただき、幸せなことでございます。また立派な会員の方々ともお会いできました。中には私にとってまたとない尊敬すべき方もみえました。
 道元禅師の坐禅は「只管打坐」。禅門の師と弟子の問答はありません。禅師は悟りや意義を求道する為でなく、無条件に坐禅に打ち込む姿こそ、そのまま仏であると説かれています。また、それまで汚れが多く成仏できないと言われていた女性も、「修行と成仏において全く平等であり、坐禅弁道すれば大導師にもなることができる」と説かれています。この事は身分、学歴、年令、国籍を問わず、自由に坐禅に打ち込めることを示しています。
 「ただ阿弥陀仏にすがり、念仏だけで極楽往生できる」と説く浄土真宗に対して、道元禅師は宗教の根源を菩提樹の下で悟りを開かれたお釈迦さまの冥想体験そのものに求められたからでしょう。曹洞宗寺院では御本尊として釈迦如来、観音菩薩等、いろいろまつられています。道元禅師は坐禅こそ信仰であり、日常生活のすべてが坐禅の延長であるから正しい生活をしなさいとおっしゃっているのです。「只管打坐」のみです。
 家の庭に2本の楠があります。1年中、青い葉をつけていますが、初夏には古い葉をすべて落とします。そして瑞々しい若葉を一斉につけます。しかし、大樹は年中青く、一瞬たりとも裸になることはありません。時の流れ、自然の営み、社会の動きの中で、私は私の坐禅の芽を育てたい。恵みに感謝して。

武藤 明範

坐禅するご縁をいただいて

 鈴木教授に無理なお願いをして、大学院の演習科目である『永平広録』を受講させていただき、道元禅師の宗旨を参究し始めていた私に、ある1つの衝撃があった。「若(も)し同牀(どうしょう)に眠らずんば、争(いか)んぞ被底(ひてい)の穿つことを知らん」(『永平広録』巻2・171)という語に出会った時のことである。
 この語は、もし同じ僧堂で寝起きを共にして、坐禅弁道しなければ、どうして坐蒲(蒲団)に穴があいてしまう程の坐り切りという、つまり仏法の真理をどうして知ることがあろうか、という意味である。この一句に出会った時、私の怠惰な心は激しく鞭打たれたのである。それは、禅を参究するならば、只管打坐であり、直に須(すべから)く正身端坐を先と為すべし、と強く問い掛けられているように感じたからである。
 その時から、火曜参禅会に参加させていただいている。臍下丹田に虚空の気を充実させて坐禅をしていると、普段自分が頭の中で何か物事を考えて、それに従って自我的自己・わがままいっぱいの自己で生きていることに気付かされ、深く反省させられる。かつて内山興正老師が、「坐禅は、最高の文化である。人間そのものを高める文化である。一鍬ずつ深く深く耕していくからである。坐禅を通じて本当の自己が見えてくる」と述べられていたが、その意味が少し分かるような気がする。
 それは、この世にいただいた私といういのちが、精一杯生きる限りのいのちを挙げて「道窮(きわま)りなし」と、坐禅弁道して真の自己に生きることだと思う。仏教が「自覚の宗教」と言われるゆえんは、こういったところにあるのではないだろうか。まだ「被底の穿つ」程の参禅はしていない私であるが、坐禅をさせていただくご縁をいただいたことに深く感謝の意を表すと同時に、今後とも参究させていただくつもりである。ご指導の程を乞い願う次第である。

三宅 桂子

禅に救いを求めて

 生物学教室では、歯学部実習に様々な小動物を扱つています。学問の為とはいえ解剖でメスを入れる時、毎回、心の呵責に苛まれます。一期一会の命をくまなく観察し、学問に生かす事が供養にもなると肝に銘じていますが、時には不注意から、その命が粗略に扱われる事も起こります。職務とはいえ、かけがえのない命を奪う事には変わりありません。日増しに悶々とした気持が深まっていた矢先、姉の不治の病の知らせを受け、その気持は、一層深まってきました。
 そんな時、十数年前体験した坐禅の記憶が蘇りました。静寂の中で時折り聞こえる小鳥の囀りに耳を傾けながらの坐禅でしたが、満ち足りた事を思い出し、早速禅研を訪れました。居合わせた先生に、命は動物のみでなく、森羅万象に至る迄あり、人はその命を食して生きているのだと癒していただき、また「無心になり、坐禅をくむ事で全てが救われる」と論していただきました。
 参禅会へ参加して、2回目に不思議な現象を覚えました。二(ちゅう)目の止静に入り、雑念を振り払おうとして腹式呼吸をゆっくり大きく数えながら反復していた時、急に体の力が抜けて爽快な気分になれたのです。登山の時経験した、山頂から下界を眺めた時のあの気分の様に。雄大な自然に比べれば、下界の悩み、苦しみ等は、たわい無く些細な事だと。眼下に見える無数の点の動きをみて、また、人の命も宇宙から見れば点程の短い人生なのかと。この様に、その時思った様々の事が脳裏をよぎり、下界では味わえないあの幸せな気分に再びひたる事が出来ました。
 私を支え続けてくれた姉は、一点の人生を人より少しばかり早く旅立って行きました。共に生を受け、昭和から平成と、長い時を過ごしてきましたのに、姉との思い出は昨日の様に思われてなりません。時間というのは極端に短縮されるのでしょうか。最近では“時”に限りを感じます。限りあるこの点の人生を、禅のお導きで精一杯生きていけたらと考えています。今後共、よろしく御指導の程お願い申し上げます。

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