愛知学院大学 禅研究所

愛知学院大学 禅研究所

参禅会体験記  平成14年

本研究所では、毎月第2火曜日午後4時30分から火曜参禅会を開催しています。
本学の教職員や学生ばかりでなく、学外の方や外国の方も参禅に来られます。経験の有無にかかわらず、関心のある方は、お気軽に禅研究所までお尋ねください。
以下に、参禅会員の体験記を紹介します。

杉下 守男

私の坐禅事始め

 私の坐禅は実験から始まりました。前に勤務していた大学に坐禅をされる生理学の先生がおられて、自分自身を被験者にして、坐禅時の脳波をとりたいといわれました。当時から私は脳波を導出・測定することはできましたので私が実験者をすることになりました。結果の一部ですが、椅子坐や仰臥でも禅をする気になればα波は出現しましたが、坐蒲を使った趺坐のときに、もっともα波が出現しました。
 愛知学院大学に移ってからは、被験者として大学の教職員の方等にご協力をお願いして坐禅の実験をしました。いくつかの流れの実験があったのですが、そのなかに、坐禅の経験が全くない方や初心者の方の坐禅時の脳波を測定する実験がありました。そんなとき、私が全く坐禅を知らない、坐禅の経験がないというのもまずかろうというので 自分も坐禅をやってみることにしました。これが私の坐禅の始まりです。
 まず神戸先生の授業に出て坐禅の仕方を教えていただきました。その後は自分一人ですわったり、参禅会に出たりです。参禅会に出るようになってから何年でしょうか。途切れず出席していたのに、今年は所用で幾度か参禅会に出られなかったのが残念です。
 参禅会に出始めた頃の思い出です。どなたが直堂をされた坐禅会か忘れましたが、一の時間がいやに長く感じられることがありました。結跏趺坐の足の感覚がなくなり、脂汗が出てきて気が遠くなりそうになりました。やっと終わって、参禅会終了後にお聞きしたら、参加者が少ないので一を長めにして、一だけでおしまいにしたとのことでした。
 今の私の坐禅は、無目的に坐禅をすることなのですが、一方で、臨床心理学的関心が強くなってきました。臨床の場で使われる瞑想は心身弛緩を進めて、リラクゼーションを進めるタイプが多くあります。しかし、坐禅は単なるリラクゼーションではありません。身体的にいえば、一本の芯としての緊張を保っておいて、その芯以外の無駄な緊張は取り去り、弛緩させるという方法ではないでしょうか。坐禅は弛緩と緊張のバランスだと思います。このバランスは身体にとどまらず、心理面にも出現しているという仮説です。臨床の場で、坐禅そのものをしてもらうわけにはいきませんが、何等かの方法で、この弛緩と緊張のバランスを獲得する過程の効果を持ち込めないだろうかと考えている最近です。

佐脇 順

澤木興道老師に魅せられて

 私の卒業証書の本籍は京都府とあるも、実際は三重県津市一身田中学校の卒業で、高校は県立津高校。高校時代勉強をさぼっていると、私の育ての親は、同郷一身田の出身で、当時駒沢大学教授であった澤木興道老師のことを語り、「人間は身分や境遇ではない。澤木老師を見よ!」と言われた。その青春時代が今も忘れられない。明治四五年生まれの親は、当時『大法輪』の愛読者だつた。
 私は昭和31年に高校を卒業後、東京へ遊学。恩師の大野信三博士は、江戸時代の禅僧の鈴木正三が、我が国における職業倫理の元祖と教えてくれた。仏教経済学者の大野先生は、1900年に生誕され、97才の天寿をまっとうされた。常々、日本人の職業倫理は、マックス・ウェーバーの言うプロテスタントのそれとは違うと説かれていた。
 ところで、学生時代の先輩で、三菱地所にご縁の黎明会に、明治40年生まれの田辺忠賢氏がおられた。その生涯を偲び、ご令息で名古屋大学教授の田辺忠顕氏が、『独酌楽仙』と題するご尊父の遺稿集をまとめられている。その中に、熊本市川尻にある寒巌禅師が開いた曹洞宗の名刹、大慈寺のことが書かれている。この寺から数百メートルの所に忠賢氏の生家があったそうだ。「ケンカ相手をねじ伏せ、その顔に小便をかけていたくらいの悪がき」だった少年時代の忠賢氏にとって、大慈寺にいた澤木老師との接触は、生涯の道しるべになったのではないかと、甥の池田武俊氏は記している。忠賢氏は池田氏に向かって、「おまえ、澤木興道を読んだか。俺が川尻時代に最も恐ろしかった坊主だ」と語っていたという。ちなみに、今年4月の在家仏教会で「釈尊」を語られた愛知学院大学講師の田辺和子氏は、田辺忠顕氏のご令室である。ご縁を感じる。
 さて、火曜参禅会に参加させて頂いてから1年が経過した。火曜参禅会に出席しながら、「只管打坐」「とらわれない心」「ゆとりの心」を『澤木興道全集』でじっくり勉強させてもらいたいと思っている。来年は九州天草や、熊本川尻の大慈寺を訪ねてみたい。2001年9月11日より、21世紀転換の時代を迎えたと感じて……。

川出 佐千代

坐禅を始めて

 山崎川の桜も散って、きれいだった花びらが花筏となって川面をおおってゆく。そんな季節も過ぎた昨年5月の初めに、私の足は何かに促されるように愛知学院の坐禅堂へとむかつていた。
 4月に参加した2つのイベントも無事に終わってほっとしていた筈なのに、心は何故かもの憂かった。苦手な季節の訪れを、身体は正直にキャッチしていた。例年、晩春から夏にかけて心身が不安定になり、やっかいなウツ症状に悩まされる。
 この日、坐禅入門の作法を懇切丁寧にご指導を下さったのは禅研究所の先生。ここまでにご縁が熟してお導きを頂けるのに十数年を経たことに気づき、感無量の謝念に満たされる。静寂と緊張の中での1時間半、終わりの鐘が大きく小さく打ち鳴らされて、その音もやがて厳かに遠く限りない余韻をのこして響き終わっていったとき、静かな感動に全身がつつまれていた。あれから9ヵ月余、いつしか声をかけ合える友人共々に月1回の参禅会の日を心待ちにする日々となつた。
 夏の日の夕暮れは、ぱきぱきと嗚る竹の音が涼しかった。秋の木漏れ日の下で参禅までの時間を待つ至福のひととき。バス停で降りたち、学院の奥までを風に吹かれながら・歩いてゆく一歩一歩の道のり。その一刻一刻が尊い。今、確かに生きている。行きたいところヘ今、導かれて歩いてゆけるこの充実感。老いの日々にふしぎな豊かさを賜り、日常生活で失いそうになっていた緊張感をとりもどしながら、ただしんしんと坐るこの時間を大切に、ことしも心新たに生きたいと願う。

愛知学院大学 フッター

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