愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅のこぼれ話  平成15年度

道元禅師と仏性(著・伊藤秀憲)

 「誰もが仏心(仏性)を持っていますから、皆、仏様です」と説く方がありますが、本当に誰もが仏様なのでしょうか。あなたも私も、或いは極悪人でさえもです。

結論から言えば、「人は仏性を持っている」と説くことは、道元禅師の仏性の捉え方からすると誤りです。禅師は「仏性を持っている」とは説かれないし、また、我々は本来仏でもないのです。師の如浄も『宝慶記』(ほうきょうき)の中で、「本来成仏」は自然外道(じねんげどう)の考えであると否定しています。

では、道元禅師は仏性をどのように説かれたのでしょうか。『正法眼蔵仏性』を見てみることにしましょう。

衆生もとより仏性を具足せるにあらず、たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。

仏性は本来具わっていたり、外からやって来るものではないというのです。

また、次のようにも説かれています。

あるー類おもはく、仏性は草木の種子のごとし、法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花菓もすことあり、果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。

仏性は草木の果実に内在する種子のように、我々の内に存在し、その種子から芽が出て生長し、果実を結ぶように、教えを聴いたり修行することによって、仏果を得るとするのです。しかし、これは凡夫の考えであるとされます。

このように、仏性は内在するという考え(仏性内在論)が否定され、次には、すでに顕れているとする考え(仏性顕在論)が説かれます。

『涅槃経』(ねはんぎょう)中の語である「一切衆生、悉有仏性」を、道元禅師は「一切衆生は悉(ことごと)くその中に仏としての本質を持つている」などとは解釈されません。

悉有の言は、衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。 正当恁麼時(正にそのような時)は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。

「悉く仏性を有する」のではなく、「衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」によって衆生の内に仏性が存在するという考えが否定され、悉有(あらゆる存在)が仏性であると説かれるのです。他の箇所では、「山河大地、みな仏性海なり」とも説かれます。

また百丈懐海が『涅槃経』を引いて言った語の「時節若至、仏性現前」も、「時節若し至れば、仏性現前す」ではなく、次のように解釈されます。

時節若至といふは時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらんとなり。(中略)時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。

「時節若至」は「時節すでに至れり」の意昧であり、仏性が現前しているというのです。

このように仏性の内在は否定され、仏性はすでに顕れている(仏性顕在)と説かれるのです。すでに顕れているのであれば、「修行は不要」となります。もしこれが道元禅師の仏性理解であるならば、比叡山での、「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」(仏性顕在)であれば「修行は不要」であるのに、何故諸仏は発心修行するのか(修行が必要)という疑問は、解決されていないことになります。では、道元禅師はどのようにこの疑問を解決されたのでしょうか。

次の文を見てみることにしましょう。

仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。

仏性は成仏以前に具わっているのではなく、成仏と同時であるというのです。とすると、「悉有は仏性なり」「山河大地、みな仏性海なり」と説かれたこと(仏性顕在)との関係はどうなるのでしょうか。

仏性が現前しているということは、『弁道話』に、

この法は人々分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。

とあるように、修によって証されたところのものであると言えます。悉有、或いは山河大地が仏性として顕在しているわけで ありません。証しない者にとつては悉有は悉有であり、山河大地は山河大地であつて仏性ではありません。

悉有、山河大地は何ら変わりませんが、成仏の時、即ち仏の側からすると、悉有、山河大地は本来仏性としてあった(仏性顕在)のであり、それを道元禅師は「本証」と言われるのです。

仏性の顕在、それは本証であって、仏の側から言えることであります。本証(仏性)を実証するには、『弁道話』で「修証これ一等」「修のほかに証をまつおもひなかれ」と述べられているように、修す必要があります。

修のほかに証はなく、修が即ち証であります。本証の上において実修すること、それが本証を実証することになるのです。修を離れて、換言すれば、自己を措いて別に仏性が顕在しているわけではありません。道元禅師が仏性の顕在を説いても、それは行じるところにおいて言っているのですから、修行が不要とはならないのです。

では、その行とは何かですが、ここでは紙幅の関係から論じることは出来ませんが、それは、只管打坐(しかんたざ)の坐禅です。

(文学部教授)

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