本学では、一年生を対象に、「宗教学」の授業を行っており、その一環として平成16年度から、坐禅実習を実施することになりました。
一度だけの実習でしたが、学生たちは、普段の授業とは全く違う雰囲気の中、新鮮な気持ちで坐禅に取り組んでいるようでした。寄せられた感想文の一部を紹介しますので、ご覧ください。
坐禅はやったことがなかったので、30分も坐ったままの姿勢が保てるか心配でしたが、実際に組んでみたら意外と早く時間は過ぎてしまいました。先生のおっしゃっていた。“体を調えること、呼吸を調えること、心を調えること”をしっかりとできたかは分からないけれど、努力はしてみました。特に心を調えることは難しいですね。雑念を捨てようとすればするほど、逆に雑念が増え、落ち着かなくなってしまいました。また、静かな空間で時間を過ごすことは、多少慣れていたけれど、動けないのは辛かったです。
最近、世間は常に音にあふれていて、しっかりと心を落ち着けることができる場所や時間がありません。だから人々は、意識的に体を静寂な空間において、自分を改めて見直す必要があると思います。そうすれば、犯罪をはじめ、他人が他人を傷つける行為も減るのではないかと思います。
中学時代、担任の先生に「他人のキライな所があるのは、自分にも同じところがあるからだ。他人は自分の鏡だ。」と言われたことがあります。普段は他人のことにばかり目がいってしまい、なかなか自分のことを見ることができないけれど、坐禅はそれができるいいチャンスだと思います。
坐禅が終わって組んだ脚をはずした時は、とてもしびれて辛かったが、坐禅は、心を落ち着かせるのによい手段だと思います。心が不安定になったらまたやってみたいと思います。今回は、大変良い経験となりました。やって良かったと思います。
正直言うと、途中から非常に眠かったです。坐禅堂は京都のお寺にでもいる感じがして、ちょうどいい薄暗さと線香の香りが落ち着きだけでなく眠気までつれてきました。
両脚を乗せての坐禅は無理だったので、片脚だけを乗せて組んでいたのですが、だんだんと乗せた脚の感覚がなくなってきて、組み替えてみたら見事に脚がしびれてしまい、心の中で身悶えていました。タイミングよく(悪く?)先生が近くにいたので、動くこともできず、必死に耐えていました。
“無我の境地”にはまだまだ遠いようです。
坐禅をするのは今回が初めてではなく、高校1年の時の校内の坐禅研修や永平寺での参禅研修など、これまで何度か機会がありました。
永平寺では、就寝前や早朝など何回か坐禅をしました。1回、20分程だったと思いますが、これまでの経験の中のどの20分よりも、長く感じたことを記憶しています。
今回も、時間が気になって仕方がありませんでした。始まってしばらくすると、警策をもって回っていた先生の動きを感じ、“もう一周すれば終わるだろう”なんて考えていましたが、それから先生は3周もしました。自分の心の甘さを痛感しました。やはり時間を気にせず、心を無にして黙々と坐らなければならないと思いました。坐禅の難しさ、奥深さを実感しました。
永平寺に行った時、ある雲水さんが、「修行生活は慣れれば、大した問題はない。むしろ早寝早起きの規則正しい生活がすがすがしく感じられるようになる。」と言っていたことを思い出しました。また別の雲水さんが、「ここに来てから、来る前の世界が如何に恵まれていたかを実感できるようになった」と言っていました。今、その言葉の意味が少しだけわかるような気がします。
私は高校の授業で、1度だけ坐禅をしたことがあります。しかし今回の坐禅実習は全然違っていました。
まず、何よりも大きな違いは、坐禅堂という日常とは全く異なった空間で行ったということです。1歩足を踏み入れた途端、独特の香りが漂っており、堂内の薄暗さも何ともいえない感じがしました。開始と終了の合図に鳴らされる鐘の音も、普段のチャイムとは違い、けじめを表しているような気がしました。
私は背筋力が強い力だと思います。そのためか、坐禅の姿勢を保つのはそれほど辛くはなく、脚のしびれもほとんどなく、同じ時間正座をすることに比べたら、かなり楽だと思いました。ただし、普段何かしら考えている私にとって、“何も考えないこと”は少し難しいようです。
私の家は、特定の宗教を持っていません。昨年祖母が亡くなった時も自由葬という特定の宗教に囚われない葬儀を行いました。今まで神も仏も信じることなく生きてきたため、今、急に仏教を信仰しようというには少々無理がありますが、在学している間だけでも仏教について考えてみても良いのではないかという気を持ちつつあります。
ただ、今回の実習で判ったことは、私には、カラオケのようなものより坐禅の方が向いていそうだということです。慌しい毎日の中、何も考えない静かな時間が存在するのも悪くないと思いました。