禅とは、インドには古代から「解脱」に到達するひとつの手段として、瞑想を用いるさまざまな宗教的行法が存在していた。仏教の開祖、釈尊もまた深い瞑想によって「悟り」に到達したと考えられている。
この故実に基づいて、仏教の全ての門流において「禅定」の実修は重視されることになった。殊に禅定による悟道を強調する大きな流れが勃興したのは中国であった。ここでは釈尊の禅定と「成道」の究極的宗教体験が真の仏教の原点と見なされた。こうした潮流の中から禅仏教の基礎が成立した。(伝承によれば、菩提達磨は中国禅宗の初祖と仰がれ、仏祖の法系に連なる偉大な祖師である。)
中国禅宗は唐・宋代にその成熟期を迎えた。「五家七宗」と呼ばれる多様な宗派が成立し、優れた禅者が輩出したのもこの時期であった。実に禅仏教は、日本渡来以前に豊かな中国の地で開花したのである。
やがて、その種子は、真実の仏道を求めて渡海し、中国の祖師たちを訪ねた栄西(1141−1215)、道元(1200−1253)といった求法僧たちによって日本にもたらされた。当初、禅は平安後期から台頭した武士階級の新たな精神的支柱として受け入れられた。さらに日本の中世文化の中に組み入れられ、茶の湯、生け花、能などの伝統芸能に影響を与えた。以来、禅は多くの勇敢な求法者の弘法救生の志に支えられて生き続けてきた。そして現在、日本禅をはじめとしたアジアの禅仏教は欧米諸国などさらに広い地域に進出している。
禅とは、第一に苦しみの世界から脱け出して悟りに到達するための技法である。それはまた、坐禅によって世界の真相と自己の本来性を見極めようとする瞑想法のひとつと表現することもできる。第二に、それは禅仏教諸宗派の総称としての禅宗を意味する。禅宗では坐禅によって仏心を会得した「歴代の祖師」の系譜の実在を信受する。
それでは坐禅によって開かれる境涯はどのようなものであろうか。確かに多くの古人の指摘するように、それは筆舌に尽しがたい何かであり、故に、それを描き出そうとして多彩な表現が生み出されてきたのである。だが、この心境は言葉のみによる的確な描写を遥かに超えている。禅の祖師たちの言説の中で、それらの典型的表現のいくつかは「自己主体と外的世界の合一感」、や「自己の身と心の完全なる一体感」を表示しようとしている。ある意味で、禅修行の極致はこの種の合一(一体化)を体得することである。さらに、それは世界の真実相を見出すことであり、かつ絶対平安の心境を達成することでもある。
また、坐禅は釈尊の定めた他の威儀と同様に、それを行ずる者達が仏と一つに結ばれる手段でもある。坐禅人は坐禅の中で仏への信を熟成し、坐禅において仏と共にある自己の自覚に到達するのである。
禅は中国・朝鮮・日本などアジアの諸地域において、坐禅によって培われた自在洒脱な精神性に基礎付けられた多様な禅文化の潮流を作り出してきた。また、多くの人々の精神的支柱として受け入れられてきた。今後も禅はさまざまな地域の人々に心の平安と創造性豊かな生きる力を与え続けるであろう。