愛知学院大学 禅研究所

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参禅会体験記  平成18年

本学では、1年生を対象に、「宗教学」の授業を行っており、その一環として平成16年度から、坐禅実習を実施することになりました。一度だけの実習でしたが、学生たちは、普段の授業とは全く違う雰囲気の中、新鮮な気持ちで坐禅に取り組んでいるようでした。寄せられた感想文の一部を紹介しますので、ご覧ください。

健康科学科近藤 幸子

 私は、この度の授業で、生まれて初めて「坐禅」を体験しました。その中で、最も驚いたのは、実に様々な作法があることです。今まで想像してきた坐禅というのは、ただ単に床に坐って脚を組むだけのものでした。
 坐禅をする際には、坐蒲と呼ばれる蒲団を用いること、また、脚を組むのも適当にすればよいのではなく、「結跏趺坐」「半跏趺坐」の2種類の組み方があるということ、手の組み方も「法界定印」という決まった形であることなど、初めて知ることが本当に多々ありました。
 坐禅中は先生がおっしゃった「調身・調息・調心」を心掛けました。30分間ずーっと背筋を伸ばしたまま坐り続けるのは結構苦しいものがあり、「私はこんなに姿勢が悪かったのか」と、深く思い知らされました。それに、調息と一言で言っても、どうすればいいのかわからず、戸惑いましたが、等しく、静かに、鼻で、深く呼吸をすると教わり、ひたすら実践してみました。視線も、前方に落とし、目は完全につぶらないようにするなど、実に多くの作法を学ぶことができました。先生が「警策(きょうさく)を入れて欲しい者は合掌しなさい。」とおっしゃったので、どのぐらい痛いのか実感したくて、合掌をしました。入れてもらうと、痛さを感じるよりも、気持ちがビシッと引き締まったような気がしました。
 時間が過ぎるのは早く、あっという間に終わったような感じがしましたが、坐禅実習を通して、いろんな知識を得ることができて、本当に良い勉強になりました。気持ちを落ち着かせたい時に、やってみるのもいい方法だと思いました。

総合政策学科清水 恵美

宗教学の授業で坐禅をすると聞いて、とても楽しみだった。大学にそういった施設があることも驚きであった。
 坐禅堂に実際に行ってみると、とても綺麗だなというのが、第一印象だった。“坐禅”と一言で言っても、様々なルールがあり、それは初めて知ったことばかりで、勉強になった。
 坐禅は、短い時間だったが、慣れない姿勢でじっと精神を集中するのは、思いのほか大変で、時間が長く感じられた。集中力はない方だと思っていたが、5分ぐらい過ぎると、呼吸も整ってきて、気持ちが落ち着いてきた。これが“坐禅”なのかと感じるところがあった。
 4月に入学してから、平日は大学、休日はアルバイトと、時間に追われた生活に、精神的にも肉体的にも疲れていた時に坐禅をして、わずかな時間だったが、とても気持ちが安らいだ。宗教にも今まで以上に興味が持てた。仏教系の大学だからこその授業で、自分にとってとてもよい経験になった。講義を聴いているよりも、自分の体で実感して、宗教を、より身近なものに感じることができた。

健康科学科久野 晴香

「今日、坐禅なんだ〜」「えっ!?マジで。どうだった?」女子大生とは思えない、なんとも奇妙な会話である。愛知学院独特の授業、それが坐禅実習である。私はやる前から、そこそこ楽しみであり、期待を胸に坐禅堂へ向かった。実は、私は一度そこに行ったことがある。毎朝恒例のお散歩で。その時は、静寂の中、大変落ち着いた雰囲気だった。しかし、今日は違った。修学旅行のような気分だった。
 そして、いざ坐禅。足にケガをしており、うまく脚を組めず、体も硬いせいもあって、無様な初坐禅をしてしまった。
 今時の若者が100人も集まって、物音もさせずに坐っている。それに耐えられず、笑い出す男子もいたが、この授業はよかった。物事を深く考えずに坐る。たったこのことだけで、心がこんなにも穏やかになるとは思わなかった。坐禅中、何かずっと考え事をしてしまうだろうと思っていたが、そうはならなかった。なんだか中国かどこかの修行僧になった気分だった。私は、いい気になって警策で叩いてもらった。鈍い音がして、痛みが思ったより大きかったのは誤算であった。
 この授業は、せかせか動き過ぎている私たちに、落ち着くことを教えてくれ、心が健康になったような気がした。

日本文化学科大石 正隆

 今回の授業で“禅”を体験して、私は、少なからず感銘を受けた。永平寺を開いた道元は、『正法眼蔵』に「只管打坐によって身心脱落に至れる」と記している。また、科学の分野でも、禅の瞑想状態の時には、脳波のα波が活発になることが証明されている。
 そして私も、実際に坐禅を組んでみて、最初は堅苦しさを感じたが、徐々に身も心も煩わしさから抜け切った状態になっていき、一種の快感すら感じていることに気付いた。それと同時に、宗教学の授業が、単なる学問だけにとどまらないということも分かった。機会があれば、またやってみたいと思う。

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