平成15年度の研修旅行は、当初はカンボジアとベトナムを訪問する予定でした。けれども、新型肺炎(SARS)の影響により急遽研修地を国内に変更し、9月1日から3日まで、かつての伊達藩領、現在の宮城県と岩手県南部を訪れました。参加者は34名でした。
1日目は平安時代末期に奥州藤原氏の拠点として栄えた岩手県平泉町をめぐりました。最初に厳美渓で自然美を堪能した後、大日如来の磨崖仏が祀られている達谷窟西光寺を拝観しました。その後、中尊寺と毛越寺を参拝し、「こけし」で有名な鳴子温泉に宿泊しました。
2日目は宮城県古川市で曹洞宗瑞川寺を拝登した後、日本三景の一つ、松島へ向かいました。松島湾ランチクルーズを楽しみ、伊達氏の菩提寺である臨済宗瑞巌寺と塩竃神社を参拝しました。宿泊は仙台の奥座敷と称される秋保温泉。宿に到着する前には、日本の滝百選の一つ、秋保大滝を見学しました。
3日目は、まず蔵王のお釜に登りましたが、残念ながら濃霧のために視界ゼロ。仙台に戻って曹洞宗輪王寺を拝登し、仙台市博物館で同地の歴史を学びました。また、青葉城址から市内を眺望した後に、空路名古屋へ帰着しました。
夏草や 兵どもが 夢の跡"今回の旅行は、奥州藤原三代の歴史と松島瑞巌寺、曹洞宗寺院2力寺を拝登し、俳人松尾芭蕉"奥の細道"の足跡を巡るような旅でした。
かつて、今より38年前に、今度の旅行にも同行された西川禎信さんと2人で行った"みちのく"の旅を思い起こしました。下宿より二千円の旅費を持ち(当時下宿の部屋代が1畳千円ほどでした)、上野駅より夜行列車に乗り、仙台まで。そして今回の旅と同じコースを木賃宿に3晩泊まり回ったものですが、セピア色の記憶と重ね合わせ、とても感慨深い物がありました。しかし、今回の旅には事務局編のテキストをいただき、予備知識を持っての参加でしたので、歴史等が理解しやすく、奥州藤原氏を知識として吸収することができました。
藤原3代百年の栄華と平和も、中央の政治に翻弄されて教えなく崩れ落ち、平泉の都も静かな田畑に戻り、世の栄華盛衰を感じさせるものでした。けれども、緑濃い参道をもつ中尊寺は、時の権力者の庇護を受けたとは言え、多くの民衆の支持を得ながら、規模は小さくなったにせよ、塔頭寺院と共に運営されている様子は、往時を偲ばせて私の目を魅了してくれました。特に金色に輝く国宝、金色堂の螺鈿細工や、細部にわたる装飾されたお堂を拝観したとき、身体の震えを抑えることが出来なくて、何時間でもお堂の前で凝視し、立ち尽くしていたい思いでした。
松島瑞巌寺では禅寺らしくまっすぐな、塵一つ落ちていない掃除の行き届いた参道を通り、本堂に参拝。内部の禅宗方丈様式と武家邸宅の合体した建物に、普通の本堂を見慣れた私の目には異質な本堂と映り、このような建物もあるのだと変なところで感心してしまいました。
波静かな松島湾のクルージング。多くの島々の間を船は進みました。長年の波の浸食で岩を削られ、長いひさしが今にも崩壊しそうな奇絶な小島を見て、自分の手でこのひさしを支えてあげたい誘惑に駆られたのは私一人であったでしょうか。
曹洞宗拝登寺院の瑞川寺では、初七日法要の塔婆のみ五輪に彩色し、特別な意味付けをしている豊かな地方色に、輪王寺では参禅会等、色々な法要を勤めている様子に感銘を受けました。二力寺とも親切な接客をされ、観光寺院にはない檀家や地域との深い交流を感じ、一寺の住職である私も見習わなければと考えさせられる研修寺院でした。
最後になりましたが今回も研修旅行に参加させて頂き、所長先生をはじめ、事務局の先生方には色々お世話をいただきました。有り難うございました。
愛知学院を退職してから毎回のように参加させて頂いています。今回の研修旅行で印象深かったのは、瑞巌寺と松島湾ランチクルーズでした。
瑞巌寺には素晴らしい国宝が多くあり感銘を受けてまいりました。興味深く見てきましたのが、拝観受付所近くの法身窟入り口に安置されている観音さまです。「洞窟は鎌倉時代半ば、法身禅師と執権北条時頼が出会ったといわれている。ニ基の石碑は左側が鎮海観音、右側は楊柳観音と呼ばれる。原画はともに塩竃出身の画家小池曲江の制作である。」とホームページにあります。夢窓国師が法身窟を訪ねた際、無人の窟内から天台止観を講ずる声が聞こえたという言い伝えが残っているとの事ですが、残念ながら私には天台止観を講ずる声は聞こえませんでした。「オン・バザラダラマ・ベイサジャ・ラジャヤ・ソワカ」と唱え、お参りさせて頂きました。
もう一体、目にとまった観音さまがあります。端厳寺参道脇に祀られた多くの観音さまの中の一体で、目を細め、微笑むやさしい顔の聖観世音菩薩です。【第二十一番 菩提山 穴太寺 本尊聖観音】と標記してありました。「オン・アロリキャ・ソワカ」と唱え、お参りさせて頂きました。
私、若い頃より観音さまに興味があり、自坊に2年前、聖観世音菩薩、愛称「ろくでん観音」を建立しました。
観音信仰の基礎となる教えは、『法華経』の「観世音菩薩普門品」の中で、「観音さまは33通りに化身し、悩める人々を救済する」とか「観音さまの名号を唱えるだけであらゆる願いが満足させられる」と説いています。慈悲を徳とした観音さまの教えはわかりやすく、地蔵信仰と並んで庶民に浸透していきました。
むかしは、巡礼者が参詣した証として名前を記した木札を各霊場に打ちつけたので、「札所」と呼ぶようになりました。全国的に有名な札所が、平安時代に確立した西国33札所で、その後、鎌倉時代に坂東33札所、室町時代に秩父34札所が設けられ、観音信仰が盛んとなり江戸時代に至るまで、全国各地に33札所が作られるようになりました。一度こちらにも研修旅行して見たいものです。
次に松島湾ランチクルーズ。私、船での食事経験無し、期待大きく乗船。禅研旅行者のみ・・・
貸切状態。スピーカーより音楽が流れ、各島の案内。「右に見えますのが鐘島、左に見えますのが鎧島、続いて見えて来ましたのが兜島・・・」 ビールを片手に日本三景松島めぐりの始まり。好天に恵まれ、風景もさすがに詩に出てくるように素晴らしい。船盛りの刺身・野菜の揚げ物・果物も美味しい。風景に酔って・・・ビールに酔って・・・船に酔って・・・楽しかった。
旅行より帰宅後、研修先の各ホームページを開きましたら、カラーで分かりやすく紹介されていました。私は研修旅行の素晴らしさを改めて思い出しました。
研修旅行の栞も年々立派になり、編集の苦労が良く分かります。スタッフの皆様、楽しい研修旅行ありがとうございました。
今回の禅研旅行は私にとってひさしぶりの参加です。日々の忙しさからはなれ、3日間の東北の旅路へ。
禅研の旅では普段行く事ができない所へ行けるので、今回はどのような所へ行けるのだろうかと期待に胸を膨らませ、名古屋空港を飛び立ちました。そして、名古屋のような猛暑ではないことを心密かに願いながら。
初日、東北の玄関口仙台空港に降り立ち、まず向かったのは「厳美渓」。この厳美渓のエメラルド色の深淵やおう穴など天然の造形美は、名勝天然記念物に指定されていると聞きました。
その美しさに感嘆の声。私は、滝の流れの勢いにのまれそうな印象を受けました。そして、川の反対側からロープウエイのように降りてくる桶。何かと興味を惹かれたのもそのはず、中には「お団子とお茶」。『かっこうだんご』というのだそうです。もちろんとてもおいしく頂きました。達谷窟には、崖に仏が彫られている磨崖仏があり、これは、以前禅研の研修旅行で九州の熊野を訪れた時にも同様の大磨崖仏を見たように記憶しています。達谷窟の磨崖仏は、馬上から、弰で像を岩面に描き掘り出したとのこと。あのような大きな仏様を、馬上から弰で岩面に描き出すにはどうやればできるのだろうかとあれこれ考えてみましたが、結論などでるはずもなく。また、西光寺では、思いがけなく鐘を撞かせていただきました。旅の思い出として心に残っています。
毛越寺は、火災などで焼失して「滅んでしまった」という感を与えない、雅やかさが印象的でした。そして中尊寺。幾箇所かめぐり、この一つ一つのお寺が独立したものだと知りました。4代泰衡公の棺から発見されたハスの種。その種が開花したとは、とても800年前のものとは思えません。時代はつながっているのだなと改めて感じました。
翌日2日目、五大堂では、軒まわりの十二支の彫刻。それは日時計の役割をも果たしていて「1周回ればあっという間に1日が終わり」とガイドさん。瑞巌寺の本堂内、いくつものお部屋。こまやかな造り・内装、工事に4年もの年月を費やしたというのもうなずけます。やはり、伊達家の庇護があればこそでしょうか。松島湾のクルージングで、様々な島を見ました。船のアナウンスを聞きながらー生懸命探すのですが、どれがどれだか終いにはわからなくなる始末。
最終日3日目、蔵王では、霧が深く雨が降っているようで、お釜を見ることができなかったのが残念です。青葉城址の伊達政宗公の騎馬像は、仙台市内を見渡しているかのようでした。
今回の研修でおとずれたお寺など、藤原3代や伊達家の威光を感じとれました。権力でものを言わせていたかと恩えば、人間味あふれた行動など、今まで知らなかったことを知ることができたこと。大変有意義に過ごせ、とても勉強になりました。今までより、歴史に興味がもてたように思います。
地震の影響、天候等出発前には心配されましが、無事、旅行を終了する事ができ大変嬉しく思います。ありがとうございました。
本年度の研修旅行では、平安時代末期に奥州藤原氏の都として栄えた岩手県平泉町の諸寺院と、江戸時代に伊達氏の菩提寺となった松島端厳寺を拝観し、あわせて宮城県内の洞門寺院2力寺を拝登した。
平泉町では、達谷窟西光寺と中尊寺、毛越寺を訪れた。西光寺は、延暦20年(801)に蝦夷の悪路王を平定した坂上田村麻呂が京都の清水寺を摸して建立した毘沙門堂が始まりとされている。
また、この堂の西側の岩壁には、高さ40メートル程の大日如来が彫られている。これは日本最北端の磨崖仏であり、源頼義が永承6年(1051)に刻んだと言われている。
中尊寺と毛越寺は嘉祥3年(850)、慈覚大師の開創と伝えられている。その後、12世紀になってから、中尊寺は奥州藤原氏の初代清衡が、毛越寺は2代基衡がそれぞれ大伽藍を造営した。藤原氏の滅亡後、両寺は鎌倉幕府の庇護を受けたが、次第に荒廃した。やがて、中尊寺は建武4年(1337)に金色堂と経蔵の一部を残して全山を焼失。毛越寺も3度の火災で16世紀までにすべての堂塔を失った。そうした中で、中尊寺の金色堂と毛越寺の浄土庭園の遺構だけが、かつての栄華を現代に伝えている。
松島瑞巌寺も、天長5年(828)に慈覚大師が開創したと伝えられている。参道脇の岩壁には、当時の行者達が籠って修行した岩窟が多数残っている。同寺が臨済宗になったのは13世紀中頃。戦国時代に一時衰退したが、慶長9年(1604)から5年をかけて、伊達政宗が現在の大伽藍を完成させた。江戸時代中期には30余の寺院が周囲に建ち並んでいたという。私達が訪れた時、宝物館では同寺103世通玄法達の三百回忌を記念する特別展が開催されており、当時の瑞巌寺の様子を学ぶ機会を得た。
拝登した曹洞宗寺院は、古川市の曹源山瑞川寺と、仙台市の金剛宝山輪王寺である。
瑞川寺の草創は不明である。16世紀に二度衰微したらしいが慶長7年(1602)、伊道政宗の重臣で古川城主となった鈴木元信が再興し、同氏の菩提寺とされた。現存する山門は、この時に古川城の搦手門を寄進されたものである。しかし、鈴木氏が正保2年(1645)に国替えになると、菩提寺としての瑞川寺も移転した。同寺はその後も鈴木氏の国替えのたびに移転し、現在は岩手県一関市にある。一方、古川瑞川寺では五世一庵林隻が一人でこの地に残って法灯を守った。以後、この寺は近辺の郷民に支えられて今日に至っている。私達は、同寺で住職の木村謙文師の歓待を受けた。
輪王寺は、嘉吉元年(1441)に伊達家9代の夫人、蘭庭明玉禅尼の発願で福島県梁川に創建された。その後、同寺は伊達氏の居城とともに場所を変えた。現在地に移ったのは慶長7年(1602)、伊達家17代政宗の時である。同寺は江戸時代には末寺四一力寺を従え、仙台城下曹洞4力寺檀林の筆頭として隆盛を誇ったが、明治時代には伊達氏の外護を失い、さらには明治9年に火災で全焼して荒廃した。しかし、明治36年以来、伽藍の復興と庭園の整備が続けられ、昭和56年に三重塔が建立されたことで、かつての偉容を回復した。私達は住職の日置道閑師から輪王寺の由来等をうかがった。
ところで最後の研修地の仙台市博物館では、伊達政宗の名代としてローマ法王に謁見した支倉常長が持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」が展示されていた。八百年に及ぶ仏教文化とともに、四百年前のヨーロッパのキリスト教文化の一端にも触れたことは、予想外の幸運であった。(文)