1日目は天孫降臨伝説の舞台とされる霧島神宮と、鎌倉時代以前に同神宮が建てられていた高千穂河原を訪れた後、鹿児島市内へ移動し、曹洞宗大中寺を拝登するとともに、同市内のザビエル滞鹿記念碑等を見学しました。
2日目は川辺町の清水磨崖仏群を見学後、知覧町にて武家屋敷群を散策し、特攻平和記念会館を見学しました。その後、遣唐使船の発着地として栄えた坊津町を訪れ、同地の歴史資料センター輝津館や一乗院跡地を見学しました。また、宿泊地の指宿温泉では、名物の砂風呂を満喫しました。
3日目は薩摩半島南端の長崎鼻、開聞岳、池田湖を周遊した後、鹿児島市に戻り、鹿児島県歴史資料センター黎明館を学芸員の案内のもとに見学しました。また、同市内の曹洞宗福昌寺跡に残る島津家墓地と、旧島津家別邸の磯庭園や尚古集成館を訪れました。そして、姶良町で曹洞宗紹隆寺(永平寺出張所)を拝登後、空路名古屋へ帰着しました。
愛知学院にお世話になって41年、歳を重ねると過ぎし日の事が懐かしく思い出される。
禅研究所の研修旅行は昭和46年「京都方面に点在する道元禅師ゆかりの祖跡巡拝」が始まりであったと思う。当時はバスによる1泊2日の研修旅行で、参加者も大学、高校、中学とそれぞれのキャンパスより参加があり、楽しい旅行であった。以後毎年、国内の研修旅行が行われ、昭和56年、初めて中国(天童寺、霊隠寺、寒山寺等々)への海外研修旅行が行われた。その後は国内、海外と交互に実施され今日に至っている。
さて、今年の研修旅行は、日本の最南、鹿児島県である。中部国際空港を飛び立ち、1時間15分後、南国鹿児島空港へ着後、バスに乗り換え研修に出発。この地は守護、守護大名、戦国大名という系譜を誇る名門島津家の領地である。また、長州藩とともに幕末から明治にかけ、多くの人材を輩出する一方で、太平洋戦争末期には特攻隊の基地として、近年は宇宙への人類の夢の実現に向け宇宙衛星打ち上げのロケット基地として知られている。
この研修旅行で印象に残ったことが2つある。1つは、今なお噴煙を上げ、活動中の桜島の雄姿である。もう1つは、今も生活の場である武家屋敷群(周辺の石垣と生垣からなる景観が日本の道百選に選定されている)と特攻基地(知覧特攻平和会館)が同居する「薩摩の小京都」知覧である。平和会館の名ガイドの説明に、展示の遺影や遺品等の前で目頭が熱くなったのは私だけであろうか ・ ・ ・。今日の平和の礎にこのような悲しい山来事があったことを改めて思い、再び戦争を起こしてはならないと思った。
今回の拝登寺院は島津家菩提寺の大中寺と福昌寺跡、そして紹隆寺である。
松原山大中寺(旧名南林寺)は島津貴久(大中)が自らの菩提寺として創建した寺院であるが、明治の廃仏毀釈によって破壊された。現大中寺は市内に移転再建され、建物は鉄筋二階建てである。境内には木曽三川の治水工事で落命した薩摩藩士の慰霊牌があり、線香が手向けられていた。
玉龍山福昌寺は島津元久によって創建されたが、大中寺と同様破壊された。福昌寺の跡は、現在、玉龍高校の校庭となり、校舎の裏手の墓地に島津家歴代の墓石があるのみで、当時の面影を見ることはない。
吉祥山紹隆寺は曹洞宗大本山永平寺の鹿児島出張所として、昭和63年の永平寺不老閣建替えの時、その旧不老閣を移設して客殿とし、その後本堂、山門、鐘楼堂等を新築して現在に至っている。本堂は鉄筋二階建てで、一階に坐禅堂をおく本山級の大伽藍である。現在永平寺からの用僧の雲衲により、修行道場として弁道修行が行われている。
今回の研修旅行に文学部の黒田安雄教授が同行され、随所で地元出身者、歴史学者ならではの説明を頂き一層有意義な研修旅行であった。
今回、緑あって鹿児島への研修旅行に参加させていただきました。同じ日本でありながら、どこか異国の雰囲気を感じさせる鹿児島は、私にとって初めての九州旅行となりました。また、鹿児島と言えば、焼酎のメッカ。様々な焼酎に出会えることを楽しみにしつつ旅行を満喫し、2日目に宿泊した指宿温泉白水館で森伊蔵を飲ませていただいたことは、この上ない喜びでした。
さて、旅行中は寺院をはじめ、いくつかの古刹や名所を訪れました。その中で特に印象深かったものについて綴ってみたいと思います。
知覧特攻平和記念会館には、太平洋戦争末期に特攻で命を落とした特攻隊員の遺品や遺書などが多数展示されていました。ガイドさんの「見学には時間がいくらあっても足りないと思いますよ。」との言葉通り、見学時間の1時間はあっと言う問に過ぎていきました。特攻隊員の遺品から感じられる迫力もさることながら、迷いのない、力強い筆で書かれた遺書からは、同じような年令ながら、私にはまねできない覚悟の量を感じました。親を思い、妻を思い、子を思いながら、自分に与えられた過酷な使命を淡々と受け入れた(というのは私の勝手な想像でしがありませんが)特攻隊員の遺書の多くには、不思議と悲壮感はなく、むしろ清々しさすら感じられるものもありました。
鹿児島では明治期の廃仏殿釈が特に激しく行われたということで、実際に訪れた寺院のいくつかは寺院跡や再建された寺院でした。島津家の菩提寺である福昌寺は高校の裏側に島津家の墓地が残されているだけの寂しいものでした。鬱蒼とした山を背負い、案内されなければ分からないような場所にあったので、地元の方でも知らない人がいるのではと、ふと思いました。
大本山永平寺鹿児島出張所である紹隆寺にも拝登させていただきました。非常に新しい寺院で、鹿児島の南国的雰囲気とあいまって、荘厳ながらもきらびやかさを感じる本堂でした。
旅行中は天気に恵まれ、バスでは、案内役を買ってくださった黒田先生の隣に座ることができたこともあり、鹿児島についてほとんど知識のなかった私でも、楽しみながら見識を深めることができました。また、事務局の方々の計らいで旅行中は快適に過ごすことができました。ありがとうございました。
この度も、参禅会研修旅行に参加させていただきました。行程表を眺めながら、私にとって初めての中部国際空港や行く先々を、大変楽しみにしておりました。
さて、1日目の研修寺院として、曹洞宗の松原山大中寺を拝登しました。明治2年廃仏毀釈で破壊され、大正6年に現在地に移転し、再建され、永平寺の直末寺院となっています。寺の境内に、幕府が薩摩藩に命じた木曽三川の治水工事に従事して命を落とした薩摩藩士の慰霊碑が建てられていました。愛知に住む私にとって、ここ鹿児島で犠牲者を憶い、複雑な気持ちになりました。
2日目は、「薩摩の小京都」とも呼ばれている知覧武家屋敷を散策し、その後「知覧特攻平和会館」を訪ねました。そこに向かう道筋の1036基の灯籠は、知覧から飛び立った439人を含め、沖縄方面の特攻作戦で亡くなった隊員の数だそうです。会館に入るや、たちまち涙かこみ上げて参りました。
大展示室の中央に、陸軍戦闘機「飛燕」がその威容を誇っている中で、周囲は、1036人全員の遺影、遺書、遺品などで埋めつくされていました。この特別攻撃隊の隊員のほとんどは17歳から22歳くらいの若者達でした。この知覧から出撃した若き特攻隊員は、薩摩富士と呼ばれる開聞岳に挙手の礼を捧げ、そして両親の恩に感謝しつつ、西南の空に散ったそうです。今年は戦後60年でもあり、改めて戦争を見つめ直すよい機会になりました。そこで、私も今後の人生を真摯に生きていこうと決意しました。
3日目の、島津氏代々の墓地がある玉龍山福昌寺は、現在は墓地だけになっていますが、かつてはフランシスコ・ザビエルゆかりの寺として、キリスト教とも関係があったことを知り驚きました。最後に、永平寺から一部の建物を移築した大本山永平寺鹿児島出張所・紹隆寺を拝登して、すべての研修が終わりました。今回、鹿児島御出身の黒田安雄先生に随所で詳細なガイドをしていただけたことは、大変光栄でございました。
最後に、このような機会を頂きました参禅会会長・大野栄人先生はじめ事務局の皆様、並びに、参加された会員の皆様に厚く御礼申しあげます。
本年度の研修旅行は、鎌倉時代以来、島津氏の領地として独自の発展を遂げた鹿児島県を訪れた。この地方は、明治維新を推進した多くの人材を輩出する一方で、明治初期の徹底した廃仏毀釈のために、伝統的な仏教文化が失われた所でもある。また、太平洋戦争末期には、知覧の特攻基地から若者達が海の彼方へ飛び立った場所としても知られている。知覧特攻平和会館を訪れた感想等は、既に三氏が研修旅行記で触れているため、ここでは仏教に関わる二つの事柄を記すことにしたい。
第一は、奈良時代から室町時代まで、大陸との交流の最先端基地として栄えた坊津を訪れたことである。奈良時代にこの地が遣唐便船の発着地として定められると、多くの使節や留学生がここから大陸へ旅立った。唐招提寺を開いた鑑真が上陸したのも坊津である。また、道元禅師もこの地から中国に渡り、この地に帰着したと言われている。
坊津の名前は、6世紀に百済僧の日羅が創建したと言われる真言宗の一乗院に由来する。皇室の勅願寺でもあったこの寺は、島津氏の庇護を受けて繁栄したが、明治2年に廃仏殿釈で破却された。現在、その跡地は坊泊小学校の敷地になっており、二メートル程の二体の仁王像と、1.2メートル四方程の四角い墓が並べ歴代住職の墓地が残っているのみである。また、重要文化財のハ相涅槃図をはじめ、わずかに残された同寺の仏具等が、坊津歴史資料センター輝津前に保管されている。
ちなみに、坊津には道元禅師とともに中国に渡りながら、彼の地で没した明全和尚の墓があると言われてきた。だが、輝津館で尋ねたところ、数年前に行った発掘調査の結果、そこに埋葬されていた遺骨等は江戸時代頃のものであり、それが明全和尚の墓でないことが明らかになったという。
第二の報告事項は、拝登した曹洞宗寺院に関してである。今回拝登したのは鹿児島市の松原山大中寺と、始良郡の吉祥山紹隆寺である。
大中寺は弘治2年(1556)に島津貴久(大中)が自らの菩提寺として創建した。かつては松原山南林寺と称し、松原の中に七堂伽藍が建ち並んでいたというが、明治2年に廃絶された。現在の大中寺は南林寺を復興するため、大正6年に現在地に移転した上で、永平寺の森田悟由禅師を拝請して開創された。境内には、宝暦4年(1754)から二年間、幕府の命令のため、木曽三川の治水工事に従事して落命した薩摩藩士の慰霊碑が建てられている。
一方、紹隆寺も江戸時代までは島津氏の分家の菩提寺だった。しかし、同寺も廃仏殿釈のために廃絶。昭和63年に永平寺の出張所として復興された。私達は監寺の宗像良孝師の歓待を受け、この地における布教の様子を伺った。
この他、私達は鹿児島市で、応永元年(1394)に開創された島津氏歴代の菩提寺、玉龍山福昌寺の跡地を訪ねた。同寺は江戸時代には門末約千五百カ寺を従え、薩摩藩を代表する曹洞宗寺院であったが、明治初年に傘下の寺院とともに徹底的に破壊された。現在、福昌寺の跡地は玉龍高校の敷地になっており、その背後に島津氏歴代の墓所が残されている。だが、それぞれの墓石には法号とは別に、明治時代に追贈された神号が刻まれている。禅宗に帰依した島津氏歴代の当主達は、自らの菩提寺を破却され、自ら望まない神号を押し付けられて、泉下で何を思っているだろうか。
明治維新の推進力を育んだため、かえって激しい廃仏殿釈に直面し、先祖代々培ってきた仏教文化を失った島津氏の運命に、歴史の皮肉を感じた研修旅行であった。