愛知学院大学 禅研究所 火曜参禅会

愛知学院大学 禅研究所 火曜参禅会

研修旅行レポート

鳥取・島根平成26年度 山陰の古刹と神ともののけの里

研修旅行 鳥取・島根 写真1

平成26年度の研修旅行は、8月25日から27日の日程で鳥取県と島根県を訪れました。参加者は、32名でした。

初日は、新幹線で名古屋駅から岡山駅へ向かい、そこからバスに乗り換え、鳥取県西伯(さいはく)郡の金龍山退休寺、米子市の大龍山総泉寺を拝登しました。その後、皆生温泉に宿泊しました。

二日目は、水木しげるに所縁のある境港市の巨嶽山正福寺を拝登し、同市内の水木しげるロードを散策しました。そして、大根島を経由して、午後からは、島根県松江市の金華山洞光寺を拝登。その後、遊覧船で堀川をめぐり、松江城を見学。また、小泉八雲ゆかりの武家屋敷群も散策しました。宿泊は、玉造温泉でした。

三日目は、日本神話に縁の深い出雲大社を参拝するとともに、出雲歴史博物館を見学しました。昼に「出雲そば」を堪能した後、安やす来ぎ 市の足立美術館に来観しました。横山大観をはじめとする日本絵画や広大な日本庭園の造形美を鑑賞した後、バス、新幹線で帰途につきました。

「げんのう」と源翁心昭吉田 道興

研修旅行 鳥取・島根 写真2

小学生のころ、図画工作の時間に同級生が「げんのう」と呼んだ道具が金槌(かなづち)であった。家では、普通に金槌と言っていたので、当時は単純に両方の呼び方があるとの思いで、いわれを追求しなかった。後日、大学生になり、室町時代曹洞宗の傑僧、源翁心昭に由来していることがわかった。

今回、禅研究所の研修旅行で彼の初開道場鳥取退休寺を拝登、開山堂において彼の御木像を拝見した時、その圧倒的存在感と迫力に驚愕した。とりわけあらゆる物を見ぬくような眼光の鋭さと押し出しのきいた体躯からにじみ出る自信に満ちた威厳と風格は、未だ経験がないほど衝撃的な印象を受けました。

源翁心昭の名は、文献により「玄翁心昭・源翁玄妙、能照禅師」などと表記される。後小松天皇や足利義満との親密な関係および那須の「殺生石」化度の逸話があり、特に江戸時代以降、歌舞伎や浄瑠璃に「玉藻前(たまものまえ)」として上演され巷間に有名です。

その逸話(伝説)とは、平安時代末期に鳥羽法皇の寵愛を得ていた「玉藻御前」(白面金毛九尾の狐)が、陰陽師安倍泰成により正体を見破られ栃木那須野ヶ原の「殺生石」となり、永い間、そこから発する亜硫酸ガスにより鳥獣類や人びとに害を与えていた。南北朝時代となり、その巨大な石を源翁が叩き割って、妖怪狐を退治(成仏?)した。これは、彼の神通力(祈祷・呪術)を示したものであり、一般民衆の信仰を大いに鼓舞した。その名声が朝廷にまで達し、後小松天皇が「能照法王禅師・(院宣)法王大寂禅師」を下賜。彼を開山とする寺院が多数ある中、土地柄から栃木泉溪寺の住持時代の出来事と推定できる。同寺には、「泉溪寺并殺生石由来」の文書がある。また福島県耶麻郡熱塩(やまぐんあつしお)の示現寺には、その二世、源翁の法嗣天海空広撰「法王能照禅師塔銘」がある。地名からもわかるように境内には熱塩温泉の元湯があり、この逸話と関連がありそうである。

彼の用いた道具が、いつの頃からか当て字で「玄能」(ハンマー)として流通し、その「げんのう」は、大工道具の一つ。頭部の先端がとがっていない金槌で、のみを叩いたり、石工が石を割る時に用い、その専門店に「玄翁屋」の屋号もあるほどです。 逸話の真意は、源翁の衆生済度の実践、神秘的な「威神力・教化力」等を示す点にある。中国の道教では「神僧」の評価を与えられよう。

出雲大社を見て立川 武蔵

研修旅行 鳥取・島根 写真3

はじめて出雲大社を「見る」ことができた。わたしは個人的信条というよりも生理学的な理由によって神社の前では拝まないことにしている。それゆえ、「見る」といったのだが、それは「八百万(やおろず)の神々」に対して反感を持っているからではない。その逆である。神社で「拝む」と、たちまちにしてわたしの体が反応してしまい、その場に立っていることができなくなるからだ。「神に見込まれている」とか「選ばれている」ということではない。これは仏教の寺院でも同じことだ。これまでのネパールやインドでのフィールド・ワークで体に癖がついてしまったのであろう。

出雲大社の本殿から儀礼を終えた神官たちが並んで出てくるのが見えた。本殿の左右(東西)に並ぶ十九社(十九の扉を有する長細い社)も目に入った。わたしはバリ島のヒンドゥー教寺院を思い出した、というよりもバリ島の寺院を見たとさえ思った。それほどに神官たちのたたずまいや社の形がバリの儀礼や建物に似ていたのだ。

旧暦十月を「神無月(かんなづき)」という。全国の神々が出雲に集まり、他の地域には神がいなくなるからだ。一方、出雲では「神在月(かみありづき)」となり、神かみ在あり祭まつりが行われる。神々はかの東西の十九社に集まるという。神々を「迎えてお返しする」儀礼が古代から続けられてきた。

バリでも神々を儀礼の都度、「呼び寄せる」。「神々が訪れてきたか否かをどのようにして知るのか」というわたしの質問に、バリの一人の僧は「しゃっくりのような反応が出るから、神の訪れを知ることができる」と答えた。わたしには頷(うなず)ける答えであった。出雲に神々が集ったことのしるしは何であろうか。

三年前、北京の道観(道教寺院)の前で、ある占い師から「あなたは二年後に致命的な脳の発作に襲われる」と予言された。直前、寺院の中で「力」を感じ、ふらふらしていたのをかの占い師が見たのであろう。それ以来、「神仏にはさわらない」ようにしている。でも。神在月に出雲に行ってみたいとも思う。

研修旅行で学んだこと作野 誠

研修旅行 鳥取・島根 写真4

私は米子市の近く、南部町猪小路が実家だが、お盆に帰省後、名古屋からみなさんとご一緒に参加した。今回も楽しい時を過ごし多くのことを学んだ

故郷への研修なのに、意外にも、拝登した寺のうち半分は初めて訪れた。今回は郷土の歴史も兼ねて拝登寺院の所見を記したい。

研修初日の退休寺は初めて拝登した。同寺は、延文2年(1357)に創建された山陰地方最古の曹洞宗の名刹で、勅使門があり、後小松天皇下賜の勅額などが収蔵されている。私は、創建された南北朝中期の鳥取県西部の様子を知人に尋ねた所、当時は、まだ米子の町は形成されていなかったとのことである。寺の創建時、伯耆(ほうき)国の日南町印賀に宝篋(ほうきょう)印塔が結衆200余人により造られた。寺の創建当時の所在地名は八橋郡(現在は大山町)と呼ばれ、私の実家である南部町とはかなり離れている。知らないのは当然かも知れない。

その後拝登した総泉寺は、子供のころから何回も訪れていた。出雲街道に面し、江戸時代の米子城主と深いつながりを持つこの寺は、米子の発展、歴史に大きな関わりを持ってきた。境内には有名な人の墓が多くあるが、江戸前期、米子で活躍した海運業者で、竹島に渡海した大谷(大屋)甚吉の墓があることはあまり知られていない。大谷甚吉の五輪の墓にお参りしたのは、平成24年9月であった。その時墓が荒れていたのが気になっていたので今回その件を尋ねたら、今は整備されているとのことであった。

二日目の正福寺は、貞享年間(1686−88)に現在地に移転した。初めて訪れたので、六道絵が水木しげる氏に影響を与えたことも知らなかった。また、洞光寺は、以前に拝登したのだが、小泉八雲ゆかりの寺院とは知らなかった。

現在の米子地方では、私の知人、後輩が「鳥取荒神神楽研究会」や「古事記おじさん『多田羅整治』の古事記座談会」等の活動をしている。

旅行のおもいでAlbum

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

鳥取・島根

研修報告Training Report

研修旅行 鳥取・島根

平成26年度研修旅行
鳥取島根

研修旅行 鳥取・島根

本年度の研修旅行は鳥取県と島根県を訪れた。山陰地方は、出雲大社や数々の神話から、日本史のあけぼのとして重要な役割を果たしている。また、宗門の名刹も点在している地域でもある。今回拝登した宗門寺院は、金龍山退休寺、大龍山総泉寺、巨嶽山正福寺、金華山洞光寺である。

鳥取県西伯郡の金龍山退休寺は、山陰地方最古の曹洞宗寺院である。寺伝によると、文和3年(1354)、同地を治めていた箆津敦忠(のづあつただ)が、源翁心昭を開山として創建されている。また、同寺は国家鎮護の勅願寺院に任じられ、末寺も数十カ寺を数え、山陰地方における宗門興隆の一端を担ってきた。その後、二度の火災で多くの堂宇と寺宝を焼失しているが、現在「金龍山」と書かれた山額が勅使門に掲げられており、これは後小松天皇の宸筆と伝わっている。私達は、住職の山田康文師より同寺の由来を伺った後、諸堂を拝観した。

米子市の大龍山総泉寺は、当初、青蓮寺と称し、十四世紀後半、美作(みまさか)国(現在の岡山県)に実峰良秀の弟子、綱庵性(こうあんしょうしゅう)宗によって開かれた。その後、国乱によって荒廃したが、文禄元年(一五九二)に、米子城主、中村一忠の帰依を受けて、現地に移転し、寺名も「総泉寺」と改めた。その後、地域の僧侶を統括管理する僧録寺院を担い、總持寺直末へと格上げもされている。こうした経緯から、宗門における総泉寺の位置付けは極めて高いものとされている。私達は、住職の河本昊道師らの歓待を受け、諸堂を拝観した。

境港市の巨嶽山正福寺は、由来によると、元は代台寺と称する真言宗寺院であった。その後、天文年間(一五三五年頃)に起きた大洪水で被災し、その後荒廃したが、貞享年間に曹洞宗に改宗され、寺号も「正福寺」と改めている。現在、同寺には「六道絵(地獄極楽絵)」が本堂に掲げられている。境港市出身の漫画家、水木しげる氏は、この絵を幼少時に目にしたことで異世界や妖怪等へ強い関心を持つきっかけとなり、『ゲゲゲの鬼太郎』など妖怪画の原点になったといわれている。こうした関わりから、近年、「水木しげるゆかりの寺」として全国から注目を集めている。私達は、住職の永井光明師からご挨拶を頂き、山内を拝観した。

島根県松江市の金華山洞光寺は、文明2年(1470)に、月山富田城主、尼子経久(つねひさ)が開基となり、鳥取県倉吉市にある定光(じょうこう)寺四世の大拙真雄(だいせつしんゆう)を招いて、現在の安来市広瀬町に創建された。その後、尼子氏が滅亡すると、毛利氏の保護を受けている。江戸時代に入り、新たに堀尾氏が入国し、松江城を築城した時に、同寺も松江に移されている。その他、同寺は、ラフカディオ・ハーン(日本名、小泉八雲)にもゆかりがある。彼の著作『神々の国の首都』に、洞光寺の鐘の音について記述されている。私達は、住職の諏訪文哉師から同寺の由来を伺った。

この他、今回の研修旅行では出雲大社も訪れた。同社は、一昨年に遷宮(平成の大修理)を終えたばかりで、創建は『古事記』に記されている程の古社である。八雲山を背に周りは木々に囲まれ、森厳な雰囲気がただよう中、広大な敷地には、巨大なしめ縄を飾った拝殿を中心に、全国の八百万の神が旧暦の十月に集まるための十九社が東西におかれ、奥に巨大な本殿が建造している。当日は、あいにく小雨の中の参拝となったが、社殿を順に巡ることができた。短い期間ではあるが、山陰地方における洞門を訪ねるとともに、日本古来の神道文化にも触れる実りある研修であった。

愛知学院大学 フッター

PAGE TOP▲