愛知学院大学 禅研究所 火曜参禅会

愛知学院大学 禅研究所 火曜参禅会

研修旅行レポート

新潟県平成30年度 佐渡金山と越後名刹をめぐる旅

研修旅行 新潟県 写真1

 平成30年度の研修旅行は8月28日から30日までの日程で新潟県を訪れました。参加者は38名でした。

 初日は、中部国際空港から新潟空港へ。到着後は、船で佐渡島に渡り、トキの森公園にてトキを見学し、総源寺を拝登しました。その後、佐渡金山と近代の精錬施設の遺構を見学し、夜は島内の大佐渡温泉に宿泊しました。夕食中には、佐渡伝統の鬼太鼓を鑑賞しました。

 2日目は、港町の風情を残す宿根木(しゅくねぎ)の街並み散策に始まり、付近の岩屋洞窟を見学しました。その後、小木港へ移動してたらい舟の乗船体験をし、フェリーで本州へ向かいました。本州に到着後、雲洞庵(うんとうあん)を拝登し、越後湯沢温泉に宿泊しました。

 3日目は西福寺開山堂にある石川雲蝶(いしかわうんちょう)の彫刻を拝観し、その後、豪農・目黒家の家屋を見学しました。午後からは、小千谷の木喰観音堂を訪れ、木喰上人(もくじきしょうにん)が作ったとされる木彫仏を拝観しました。次に寺泊のアメ横へ立ち寄った後、越後の一宮である弥彦神社を訪れました。新潟市内へ移動した後、市内散策にて各自が夕食を済ませ、新潟空港へ向かいました。往路と同じように飛行機にて新潟空港から中部国際空港へ移動し、帰途につきました。

期待を超えた非日常の世界田尾雅夫

研修旅行 新潟県 写真2

 佐渡は行きたかったところです。機会がなくはなかったのですが。一昨年には秋田に所用があって、帰途、新潟駅の近くを歩き回り、もう1泊して佐渡に行こうと直前まで企画していたのですが、やはり遠いところなので止めにした。それが今回実現しました。

 なぜ、行きたかったのか。権力闘争に敗れた貴人の流刑地、江戸の罪人の強制収容所、絶滅寸前の鳥類の生息地など、どちらかといえば、地の果て。暗いとまではいえないが、明るいともいえない。けれど、荒海の向こうにある。いつか行きたいところでした。暗さに憧れる性格です。その暗さを覗いてみたい。いつか行ってみよう。スポッと穴の空いたパワースポットになっていました。

 先日、飯田線の秘境駅に行きました。私だけかと思っていたら、続々と100人近く降りてきて、駅周辺は満杯になりました。帰るときの入れ違いに同じ数の観光客が降りてきたから、その日だけで1000人以上、秘境駅を見学したことになるのではないでしょうか。

 遠くの佐渡、近くの秘境駅、どちらも行ってみて、表現の仕方に戸惑うのですが、むしろ内から外にパワーが溢れて宙に浮いたような気分を経験しました。とはいいながら、長年の大きな穴が塞がれて安心できたようでもあります。非日常の期待はあったのですが、どちらも日常の延長線に広がる世界でした。その方が深い。とにかく行ってみるものです。

 なお、それとは別に、期待を超えた非日常を経験しました。一つは、憧れのサユリの三角家屋を見たこと、彼女が触ったかもしれない、その壁に触れたこと、使い始めたデジタルカメラに、彼女と並んでいる光景を連想しながら何度も撮りました。それから、奥の見えない洞窟の暗い冷たい感触も記憶にあります。加えて、佐渡ではないけれど、木喰仏を見たこと。それに手で触れるなど、感激の一言です。

 短い旅行でこれ程の濃密な体験をさせてくれるなど、滅多にあるものではありません。

心に残る佐渡・新潟を巡る旅山崎達夫

研修旅行 新潟県 写真3

 「佐渡と越後」は2度目ですが、今回はツアー観光と異なり、心に残る旅となりました。

 初日、佐渡金山遺跡。ブラタモリ登場のガイドが、ツアー客の行かない場所も、歩きながら丁寧に説明して下さいました。次に佐渡の古刹・総源寺。江戸時代から佐渡奉行の菩提寺で、歴代奉行の位牌・墓が残っています。住職から、明治維新以降の佐渡の状況、奉行所廃止と金山衰退で、人口も半減のことなどお聞きし、温かいお人柄の中の気骨・ユーモアに感じ入りました。寺の眼下の北沢浮遊選鉱場跡は巨大な産業遺跡で、金山の往事の繁栄が偲ばれました。

 また、大間港ではバスガイドから、私の尊敬する「服部長七」の紹介があり、嬉しい驚きでした。三河出身の明治の土木技術者で「長七たたき工法」の開発者です。工法の構造物は各地の港に現存しています。環境に優しい技術は、近年見直されアンコールワット寺院修復にも使われています。

 2日目は休日の雲洞庵を特別に拝観。参道の石畳の下に法華経があることを心に留めて歩きました。張りつめた空気の坐禅堂から庭を見渡すと、静寂に夏の終わりを感じました。

 3日目は、石川雲蝶の迫力のある作品を有する西福寺を拝観。雲洞庵が静寂の寺ならば、西福寺は華やぎの寺でした。

 最後の拝観が小栗山(おぐりやま)木喰観音堂。木喰上人が1ケ月足らずで彫り上げたという30数体の観音 像が素朴な笑みで私達を待っていました。観音像から、村人の信仰と協力の強い絆が感じられました。この絆が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐などから、観音像を守り、今も信仰を続ける力になったのでしょう。聞けば、昔は木喰仏も子供の遊び相手だったとのこと。円空仏にも似た話があり、時と場を越えた共通性を感じました。更に、驚いたことに、世話人の方々が、文化財である仏像に触れさせて下さいました。像に触れた皆さんの顔が、観音像の笑みと同じ優しい笑顔だったことが印象的でした。

 このように心に刻まれる旅行に参加させていただいたことに深く感謝いたします。

観光×学び+α井村早苗

研修旅行 新潟県 写真4

 この研修旅行のいちばんの特徴は、学校関係者のお坊さんや信徒さんだけでなく、私のような門外漢も気楽に参加できることでしょうか。

 書きたいことは山ほどあるのですが、紙面の都合で、印象に残った幾つかをご紹介します。

 最初は佐渡の「トキの森公園」。トキは古く『日本書紀』に出てくるとか。ご存知のように、明治以降乱獲により1952年、特別天然記念物に指定されました。全長は76センチほど。とても優雅な舞姿でした。トキの漢字を調べたら、「鴇」「朱鷺」「桃花鳥」の3種類がありました。知りませんでした。淡いピンクを帯びた白色の羽毛…だから「桃の花の鳥」なんて、夢があるというか、言い得て妙ですね。

 「佐渡金山」は、テレビの「水戸黄門」などに時々登場します。もっとも、ドラマの中では「金山=悪代官」の印象ですけどね。坑道の様子や古い時代の写真を眺めていると、ドラマの設定とは全く違う、先人たちの厳しい生活を思い浮かべることができました。

 佐渡名物の「たらい舟」を体験した後は、高速フェリーで一路「越後湯沢」へ。

 3日目のメインは、新潟県指定文化財「木喰上人作・三十三観音像」等の見学です。木喰上人とは、木の実や草などを食べて修行する僧のこと。上人の作品は「微笑仏(みしょうぶつ)」と呼ばれ、ふくよかな頬、団子鼻、山なりの太い眉、などが特徴的です。像を抱かせていただきましたが、なんだかとても温かな気持ちに浸ることができました。「参禅会」だからこそのスペシャル体験…とても感動的でした。

 この研修旅行を一言でいえば、大昔に行った「修学旅行」でしょうか。「ワイワイガヤガヤの観光」×「まじめな学び」+「スペシャルα」は、子ども時代を彷彿とさせました。

 素敵な研修旅行を企画してくださる事務局の方々に感謝しつつ、次回を楽しみにしています。

旅行のおもいでAlbum

新潟県

新潟県

新潟県

新潟県

新潟県

新潟県

新潟県

新潟県

-

新潟県

新潟県

研修報告Training Report

平成30年度研修旅行
新潟県

 平成30年度の研修旅行は新潟県の中越地域と佐渡島を訪問した。

 新潟県は佐渡を除く全域を越後と呼ばれていた。越後は7世紀に大和政権によって国造が派遣され、大化3年(647)に沼ぬた垂りの柵さくが設置された。中世前半は、小国氏、加地氏、新発田氏などの支配地域を争っていたが、天正14年(1586)に上杉景勝が新発田氏を滅ぼして越後を統一した。

 佐渡島は、アルファベットの「S」に近い形で、地形は北の「大佐渡」と南の「小佐渡」、中央の「国仲平野」からなる。佐渡は昔から金の採掘できる島として知られ、その様子は『今昔物語』にも記されている。江戸時代には、徳川家康が佐渡を天領として佐渡奉行所が設置された。佐渡で採掘される金銀は幕府の貴重な財政を担っていた。

研修旅行 新潟県

 新潟県の曹洞宗寺院数は全国3位である。広く展開した理由の一つに、峨山(がさん)禅師の弟子たちによる地域密着型の布教活動の功績が考えられている。今回は、新潟県における曹洞宗の展開と信仰を集めた寺院として青岳山総源寺と金城山雲洞庵、そして石川雲蝶の彫刻で知られている赤城山西福寺を拝登した。

 青岳山総源寺は、元和5年(1619)に剛安寺六世瑚月周珊(こげつしゅうさん)によって佐渡相川の地に開基・開山された。当寺は開山から明治20年(1887)の間、佐渡一国の曹洞宗六三ヶ寺を統括する寺院に任じられていた。明治14年の僧録廃止の折、旧来の功績により佐渡一国の曹洞宗の法式、会合の節は総源寺が上席たるべきという印可状を永平寺・總持寺の両本山より賜った。

 金城山雲洞庵は、傑堂能勝(けつどうのうしょう)を勧請開山、その高弟の顕窓慶字(けんそうけいじ)を開山として、曹洞宗に改められた。その前身は、藤原房前(ふささき)が母の菩提を弔うために、養老元年(717)に建立した律宗の尼僧院であり、その頃にはすでに雲洞庵と称していたとされている。その後、永享元年(1429)に、関東管領であった上杉憲実(のりざね)を開基として再興された。以降、上田長尾家の菩提寺としてその帰依を受けて寺運は興隆した。さらに、十三世通天存達(つうてんぞんたつ)は上杉景勝の叔父といわれ、上杉氏の庇護を受けて発展を持続させた。

 当庵の赤門から本堂へと続く敷石の下には法華経の一文字一文字が記された小石が埋められている。この言い伝えから「雲洞庵の土踏んだか」という言葉が生まれ、一度は訪れるべき越後の名刹として、古来より篤く信仰されてきた。

 赤城山西福寺は、天文3年(1534)に芳室祖春(ほうしつそしゅん)によって天台宗の寺院として創建されたが、後に曹洞宗へ改宗し現在に至っている。だが、寺伝によると、それ以前の貞治元年(1362)には、現南魚沼市雷土の楡井(にれい)孫九郎が開基となって、水沢の地に真言宗の巌松庵(がんしょうあん)を建てたとされている。その後、享徳元年(1452)にその巌松庵が西福寺と改められ、文明2年(1470)に赤城山の山号が付けられたと記されている。安政4年(1857)に23世蟠谷大龍が芳室祖春や道元禅師、歴代住職を祀るための開山堂を建立した。この開山堂の天井には、石川雲蝶による彫刻や、絵画・漆喰細工など多くの装飾がなされている。

 他にも、晩年の木食上人が彫刻した木喰仏を安置している木喰観音堂や、越後一宮の弥彦神社を参拝した。また、佐渡市では、佐渡金山史跡や北前船稼業によって発展した宿根木集落を見学し、当時の産業の様子を学習した。

 短期間であったが、佐渡・越後地方の洞門寺院を拝登するとともに、当地域の産業や、様々な歴史や文化に触れることができ、実りのある研修であった。

研修旅行 新潟県

愛知学院大学 フッター

PAGE TOP▲