令和元年度の研修旅行は8月28日から30日までの日程で山口県を訪れました。参加者は29名でした。
初日は、名古屋駅から新山口駅へ。到着後は、バスで移動して、禅昌寺を拝登しました。昼食後には、瑠璃光寺を拝登し、次に訪れた吉田松陰記念館では、70体以上のろう人形によって再現された松陰の生涯を学びました。夜は萩温泉に宿泊しました。
2日目は、松下村塾などが存する萩城下の街並みを散策しました。金子みすゞ記念館を拝観し、昼食を済ませ、青海島遊覧船に乗って、大自然が削り上げた断崖絶壁や石柱などを鑑賞しました。その後には、大寧寺を拝登し、夜は湯本温泉に宿泊しました。夕食中には、伝統ある石見神楽を鑑賞しました。
3日目は秋芳洞・秋吉台展望台を見学し、その後、功山寺を拝登しました。午後からは、長府城下街を散策し、日清講和記念館を訪れ、講和会議当時の室内が再現された館内で、下関条約と称される講和条約の歴史的意義などを学びました。続いて唐戸市場を見学した後に、関門海峡を渡り、門司港レトロの街を散策しました。小倉駅に移動した後、各自が夕食を済ませ、新幹線で帰途につきました。
私にとって13年ぶりの研修旅行参加で山口県を訪れるのは35年ぶりです
初日の瑠璃光寺の境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっており、五重塔は国内で10番目に古く日本三名塔の一つにもなっているそうです。一つ一つの屋根には意味があり下から、地(基礎)水(塔身)火(笠)風(請花)空(宝珠)で五つの世界(五大思想)を示し仏教的な宇宙観を表していることを知りました。その後吉田松陰記念館を見学し、宿泊先に向かいました。
2日目は、朝から雨の為、伊藤博文旧宅などを見学しました。萩・明倫学舎についたときは、雨が激しくなっていましたが建物にも興味があったので濡れる覚悟で見学しました。その後、小雨になり次の金子みすゞ記念館では、今まで詩にはあまり興味ありませんでしたが、展示されている詩を拝読しているうちに感銘を受けました。
青海島観光汽船では、雨も上がり船内にいましたがデッキに出て、潮風にあたり本当に清々しい気持ちで遊覧観光を楽しませていただくことができました。
次に訪れました大寧寺は、609年前に開創され「西の高野」と称されたそうです。境内も広く雨上がりでせせらぎの音に妙に気をひかれ、白蓮橋を渡り盤岩橋まで散策したところで声がかかり小走りで戻り、記念撮影をしていただき大寧寺をあとにし宿泊先に向かいました。
最終日は、雨もすっかり上がり秋吉台展望台から壮大な草原を眺め楽しみました。その後、秋芳洞に向かいました。しかし、昨日までの雨の影響で洞内の水位が上昇して途中までの見学と聞き少しガッカリしましたが、目の前の神秘的な眺望に満足しました。功山寺では、国宝仏殿があり外観を撮影していましたが講話の後で、なんと、国宝仏殿の中を見学させていただきました。通常の拝観ではあり得ないことを経験させていただき感激しました。
各住職様からのそれぞれ講話をいただき難しいこともありましたが、私のような禅の素人であってもすごくタメになることが多く、思い出に残る研修旅行になりました。同行してくださいました皆様に感謝します。まだ訪れたことのない県は10ほどありますが、次回も何処に行けるか楽しみにしています。ありがとうございました。
山口県には、2度ほど来たように思うが、1度目はいつのことか忘れてしまった。前回は、日本糖尿病学会の総会の時である。今回は、禅研究所の研修旅行であるので曹洞宗の禅昌寺、瑠璃光寺、大寧寺、功山寺にお参りした。
瑠璃光寺には国宝の五重の塔が山を背に立っていた。この塔は、周防など六ヵ国守護の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱で敗死したので、弟が菩提を弔うために造営を始めたようである。
功山寺では、住職が、「幕末の長州藩による倒幕時には、高杉晋作が寺内で挙兵した結果、同藩内の意見が倒幕で決した」という話をされていたが、国宝の仏殿を見学する時間がなくなりそうになった。そこで木村先生が仏殿を見たいと言われたところ、住職は驚いて、多くの人は興味がないようなことを言われた。古いものは国宝に指定されるが、それが人々の生活にどのような影響を与えたのか。高杉晋作の行動は、外国に立ち向かうことのできない幕府を倒し、近代化を促進し、欧米による日本の侵略を防ぐことにつながった。今回の旅行では、松下村塾も見学した。8畳、10畳の2間で、全員の顔が見えるように机が配置されていた。吉田松陰が10歳の時に藩校明倫館で講義を行っていたことを知り、驚いた。門下生や門下生の門下生には、伊藤博文、木戸孝允、高杉晋作らがいる。自分の教員の経験から考えても、多人数の講義よりも少人数のゼミの方が学生の理解が良い。広い範囲を教えようとするから、生徒の理解度を無視して授業をするが、それでは時間の無駄である。少人数で、狭い範囲の事柄について、深く議論しながら、真理を追究する授業が大事である。広く、浅い知識を得ることよりも、真理にたどりつく方法を学ぶことの方が、はるかに価値がある。そういうことであれば、10歳でも教師になれる。今回も禅研究所の皆様には格調高い、完璧な旅行の栞を作成して面倒もみて頂き、心から感謝申し上げます。
我が家は、毎年参禅会旅行の案内を待ちわびている。参禅会の旅行は、初めての地も、再訪の地も、魅力的である。個人旅行や一般ツアーでは、通り過ぎたり、上っ面ですます場所が、新たな輝きで、心に深く刻まれる。今回も、寺院の方々から、戦乱の世から明治の廃仏毀釈までの山口の曹洞宗の盛衰と、各寺院の辿った歴史を丁寧に教えていただいた。寺院ごとの複雑な有為転変の歴史の重みと、現在まで法灯を伝え守り続けていることの大変さに感じいり、思わず合掌していた。
また、萩では「吉田松陰」の足跡を辿り、わずか30年の生涯で、激動の世代を駆け抜け、多くの志士を育てた彼の生き様を生々しく感じることができた。彼の教えが現代の萩の教育に生きていることにも驚き感動した。そして、一番心に残ったのは部屋や書店が忠実に再現された「金子みすゞ記念館」だ。
彼女の詩との出会いは30年以上前で「私と小鳥と鈴と」や「大漁」は、当時カウンセリングを学んでいた私にとって、とても身近に感じられ愛唱していた。しかし、その後の「みすゞブーム」で、巷で道徳教材のように繰り返し使われ、TVにまで流れるようになると、違和感をおぼえ遠ざかっていた。
この記念館は、そんな私の屈折した思いを見事に払拭してくれた。昔のままの佇まいの中に「みすゞ」の息づかいが聞こえてくるようだった。あの透明で温かい眼差しは、奥底に深い悲しみを抱いている故の優しさではないか。彼女の紡ぐ言葉に、彼女の心のひだがほぐれ浄化されていく様が見えた気がした。深い憂いと強い痛みが、凜とした壮大な心を生み出している気もした。清水寺の新襖絵に「大漁」が描かれていることを思い出し、全ての命を愛おしむ仏の心をも改めて感じた。
孫への土産に詩集を買い求めた。私自身も今、彼女の詩集をじっくり読み返している。
本年度の研修旅行は山口県を訪れた。山口県は本州最西端に位置し、南は温暖な瀬戸内海、西は荒涼とした響灘、北は風浪の高い日本海と、それぞれ趣の異なる海に3面を囲まれている。こうした中で、曹洞宗寺院の展開を知るためのキーワードは、守護大名の大内氏と通幻派である。今回は、法幢山禅昌寺、保寧山瑠璃光寺、瑞雲山大寧寺、金山功山寺を拝登した。
法幢山禅昌寺は、明峰派の慶屋定紹(けいおくじょうしょう)が大内義弘の外護を受けて開創された。古来より「西国の高野」と呼ばれ、境内に「賽の河原」があることから、宗門寺院となる前から霊場であり、開創当時から寺院の周囲には七三房の末庵が存在していたとされる。中世には、山内の円通院・高源院・玉泉庵・福寿庵・正法院の五院による輪住制を敷いたが、江戸時代初期に輪住制を廃止して独住制へと移行し、現代まで至る。
保寧山瑠璃光寺は、元々、周防国守護代であった陶弘房(すえひろふさ)の妻が、夫の菩提寺として吉敷郡仁保村(現在の山口市仁保)に建立した安養寺が由来であり、開山は石屋派の大庵須益(だいあんしゅえき)である。門葉は170ヵ寺と多く、中国地方を代表する曹洞宗寺院である。屋外の五重塔は国内で10番目に古いとされ、日本三名塔のひとつともされる。高さは法隆寺五重塔とほぼ同じである。国宝の五重塔の他には、瑠璃光寺本『正法眼蔵』(83巻本)や、雪舟筆とも伝わる開山から三世までの頂相三幅対が、県の文化財指定を受けている。
瑞雲山大寧寺は、長門国守護代であったとされる鷲頭弘忠(わしのうずひろただ)(大内弘忠)が通幻派の石屋真梁(せきおくしんりょう)(通幻寂霊の法嗣)を開山に招いて開かれた寺院である。その後は、当地の守護大名であった大内氏の庇護により、大変に広壮なる伽藍を誇り、「西海第一の法城」と呼ばれるなど、中国地方第一の曹洞宗寺院であったとされる。現代では一般的に瑞雲山大寧寺と呼ばれるが、詳しくは瑞雲萬歳山大寧護国禅寺という11字の堂々たる山号・寺号を称した。
なお、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)の反乱に遭った際、同寺内で自刃を遂げており、この時の兵火により山内の堂宇は灰燼に帰した。後に陶氏は毛利氏によって滅ぼされたが、その後毛利氏によって諸伽藍が再建され、香華所としても栄えた。門葉は中国・九州地方の各地に展開し、また石屋派の派頭としても位置付けられる。大寧寺三世の定庵殊禅(じょうあんしゅぜん)の時に、神のお告げによって長門湯本温泉が湧出し、同寺の寺領となっている。
金山功山寺は、臨済宗の虚庵玄寂禅師によって開かれ、当初は金山長福寺と号し、開基は長門探題北条時仲であった。また、足利尊氏や、大内氏によって庇護を受けた。後に、曹洞宗へと改宗し笑山寺と改称した。さらに、初代長府藩主・毛利秀元の法名である「智門寺殿功山玄誉大居士」に因んだ功山寺へと改められて、長府毛利家の香華寺となった。幕末の長州藩による倒幕時には、奇兵隊を組織していた高杉晋作が寺内で挙兵し、「功山寺挙兵」と呼ばれた。
なお、開創当時から存する仏殿は鎌倉時代の禅宗様を代表する建築とされ、国宝となっている。堂内には室町時代の仏像で傑作と評される千手観音坐像が安置されている。
この他、吉田松陰記念館では明治維新の原動力となった当時の様子を学び、下関周辺では明治以降、商工業発展の役割を担うこととなった都市を見学した。
短い期間ではあるが、洞門寺院に祖師の足跡を訪ねるとともに、当地域の産業や、様々な歴史や文化に触れることができ、実りある研修であった。