たとえば、「冷暖自知」ということばがある。水を飲んではじめて水の冷たさ暖かさを真に味わうことができることをいうのであるが、仏法の、また禅の真髄はみずからの体験を通してはじめて真の理解に達することを教えることばである。しかし、これはひとり仏教なり禅なりの教えであるにとどまらず、人間生活のあらゆる局面についても妥当するといえる。
老若男女を問わず、わたしたちが立ち向かう人生は、それぞれに厳しく、かつ非凡である。みずから自分の固有の辞書をひもときながら、“世の中”という手強い、そしてやり甲斐のあるしろものを苦労して料理していくことが要請されている。期待通りには必ずしもことが運ばないことにも当然であうに違いない。失意や挫折に終ることになるかも知れない。しかし、それに屈せず再起を企てることもまたこの世に生を享けたものの特権であり義務であると思う。愛惜とあきらめはすでに人生の終りを意味することを、わたしたちはこころに銘記しなければならない。
人間は、いわば、ひとり残らず“わが人生”というタイトルで、たった一冊の大河小説を生涯をかけて書き上げていかなければならないという命題を課されている存在であるということができよう。その意味において、日々の体験の中で、文字通り現実を“冷暖自知”して、一ページずつこの勇編を書き上げていくことが人間であることの証しであるということになる。本学院が、また当研究所が掲げる「行学一体」の学是の真意もこのことにほかならない。