中国の禅匠として名高い百丈懐海と一学人との問答が語録のなかにでてきます。"僧、百丈に問う、「如何なるか是れ奇特の事」。丈日く、「独坐大雄峯」。僧礼拝す。丈即ち打つ"とあります。
僧の問う「如何なるか是れ奇特の事(特にすぐれて意義のあることは何か)」のきりこみに、百丈は「独坐大雄峯(ただひとりこの大雄峯に坐していることのほかに、特別に奇瑞なことなど何もない)」という揺るぎのない境地をここに丸出しにしたことばです。百丈の面目躍如というべきでしよう。
しかし、ここでこの問答が終わっていないことに注目する必要があります。一僧すかさず一礼をします。百丈また間髪を入れず一打を下してこの問答が結着するところに、妙味が躍如としてあらわれています。百丈の"独坐"はここに至ってようやく完結します。"独坐"という静の境位と"即ち打つ"の動の活作略(かっさりゃく)とが瞬時にして禅の世界を目のあたりに展開しているところに目を向けるべきでしょう。
のちの禅の評者は、この師百丈を「虎の翅(つばさ)を挿すが如くに相似ず」と評し、"独坐"の禅機を引きだしたこの僧もまた、「死生を避けず敢て虎鬚(こしゅく)を将(ひ)く具眼の士」と賞讃のことばをおくっています。禅においては、古くからこのように、師と弟子のあいだで、恰も虎(師)が獲物(弟子)を襲うように、また弟子が虎の鬚(あごひげ)を引き抜くように躍動した問答が、繰りひろげられてきました。僧の一礼と師の一撃の動静一如のなかに"独坐"の世界が現成します。古来、禅問答の極致として尊ばれるゆえんです。