曹洞の老古仏、大智禅師の残した「偈頌(げじゅ)」の中に「筍」と題する絶句があります。
万物生成自有時(万物生成自ら時有り)
叢林不管著鞭遅(叢林は管せず鞭を著くること遅きを)
春風一夜生頭角(春風一夜頭角を生じ)
王立莫非龍鳳児(生立して龍鳳児に非ざることなし)
あらゆるものが成長するには自ら時節の到来する因緑があって、いたずらに作為的なてだてなどのはからいは一切無用である。僧堂で修行する雲水(筍)は、みなそれぞれに自ら成長していくものであるから、修行の達成の速い遅いことなどは、ことさらに意に介する必要はないことだ。ひとたび春暖の時を迎えると、すべての筍は一夜のうちに頭を出して、堂々とひとり立ちをして素晴らしい竹(龍鳳)に成長して屑などはひとつもないものだというのがこの詩の趣旨であります。
しかし、ここには重大な陥穽がひそんでいることに注目する必要があります。何の努力もしないままに、筍が龍鳳に成長することをいっているのではありません。すべての筍が、自立への営みを厳冬のなかで倦(う)むことなく続けていることが前提となっているとみなければなりません。
古仏道元は、「仏性を知らんとおもわば、知るべし時節因縁これなり。若至(にゃくし)というは、すでに時節至れり」といっています。これは、仏性を明らめる時がいつかやってくるだろうと待つことではありません。
“時節若至″というのは、“時節既至″ということです。つまり、“いま”というこの瞬間に自分の全生命を役げいれることが、そのまま仏性の現前ということになります。