この言葉は、『臨済録』に出てくる臨済義玄(?−867)の言葉で、「随処に主となれば立処みな真なり」と読みます。
「随処」は、日常生活における何時・如何なる時や場所などのことをいいます。
「主」とは、他人にも自分にも束縛されることのない自在無礙の人のことで、臨済義玄がいう「無位の真人」「主人公」のことをいいます。
「無位の真人」とは、何ものにもとらわれることのない真に解脱した人をいいます。「主人公」とは、全ての人間に本来具わっている仏性・如来蔵・本来の面目のことをいいます。
「立処」とは、今現在立っている処、すなわち行・住・坐・臥(四威儀)の日々の生活の瞬間・瞬間の存在の仕方をいいます。
「真」とは真実のことで、我々が住む世界は、常に刹那生滅を繰り返し、現象変化します。仏教ではその在り方を真実として捉えます。「諸法実相」ともいい、真実世界は我々の思考と関係なしに顕現していることをいいます。現象世界の真実に我々の思考を融合させることをいいます。
人間は何時・如何なる場所であっても、本来仏としての主体性を失わず、自在無礙の生き方ができれば、日々が真実そのものの生き方となり、生きるということが、真実を開顕して生きることになる、というものです。
混迷した現代社会は、多様な価値観によって生き、我々を何時しか迷界に誘導します。そのような価値観に迷うことなく、縁あって人間として生まれた唯一の目的は、真実を開顕するためであることを決して忘れてはなりません。