この語は『無門関』『景徳伝燈録』などに出る唐代の長沙景岑(ちょうさけいしん)の言葉で、「百尺竿頭(かんとう)さらに一歩を進む」と読みます。道元禅師も『正法眼蔵随聞記』巻三に、「古人云く、百尺竿頭如何に一歩を進むと。百尺の竿頭に登りて、足を放たば死ぬべしと思って、強く取りつく心あるなり。一歩を進めよと云うは度世(とせい)の業よりはじめて、一身の活計(かっけい)に到るまで、思い捨つべきなり。それを捨てざらんほどは、如何に頭燃を払って学道するとも、道を得ること叶うべからず。」と説かれております。
「百尺竿頭」は、30メートルほどの長い竹竿の先端ということで、私ども人間が今生きている現実をいいます。私どもは、諸行無常・諸法無我のただ中に生きています。存在する全てのものは、時間と空間の束縛を受けますので、刹那生滅しておりす。生命あるものは、死に向かって常に現象変化しております。
私どもは、まさに絶体絶命の断崖絶壁を生きる場所としていることを自覚しなければなりません。
「さらに一歩を進む」は、長い竹竿の先端からさらに一歩を踏み出すことをいいます。しかし、一歩を踏み出せば、真っ逆様に地上に落下してしまいます。
人生を生きるということは、危険であっても一歩を踏み出すことに他なりません。私どもは一歩を踏み出せないので強固な「自我」をもつことになります。しかし、絶体絶命の生命を前にして「自我」は何の役にもたちません。自己を苦しめるだけです。
「一歩を進む」生き方は、自我を造る生き方を否定して、自然や生命を支える自己の身心に感謝し、人のために生きる生き方をすることです。