愛知学院大学 禅研究所 禅について

愛知学院大学 禅研究所 禅について

禅の一言  平成20年度

本来無一物(著・所長 大野栄人)

 この語は、『六祖壇経』や『正法眼蔵』などに出てくる六祖慧能(637―713)の言葉です。

 『六祖壇経』には、「菩提にもと樹なく、明鏡もまた台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃をひかん」とあり、慧能が神秀(?―706)に 対して言った言葉です。すなわち、神秀は、身は菩提樹とか心は明鏡台であるといわれますが、私・慧能には菩提も煩悩も身も心も一切なく、本来無一物そのものです。だから塵や垢もつくことはないので払ったり拭ったりする必要もない、というものです。

 「本来無一物」とは、刹那生滅するすべてのものには実体がなく、この世の中には、本来、執著すべき一物も存在しないことを教示します。

 道元禅師も『正法眼蔵』古鏡の巻に、慧能の故事を引用された後、「しかあれば、この道取を学取すべし。大鑑高祖、世の人、これを古仏という。圜悟禅師いわく、稽首、曹溪真の古仏。しかあれば知るべし、大鑑高祖の明鏡を示す、本来無一物、何処有塵埃なり。明鏡非台、これ命脈あり、功夫すべし。」と、慧能の「本来無一物」の仏法の重要性を示唆されています。

 私どもは、自我をつくり、相対分別をしつづけ、あらゆるものを所有し、所有したものに執著しつづけて生きています。如何に多くの財産やものを所有したとしても、死滅することにより、最終的に私のものは何一つとしてないことに目覚めなくてはなりません。

 また、自我にまみれた私からも私を開放しなくてはなりません。

 本来、仏としての自己に出会うこと。それが私どもに課せられた命題です。

愛知学院大学 フッター

PAGE TOP▲