ホモルーデンス(homo ludens)という言葉の注目された時代がある。オランダの歴史家ホイジンガが、人間の本質的機能としての「遊び」を人間観の中核に位置付けたのだ。この言葉はしばしば「遊戯人(ゆうぎじん)」などと訳された。遊びは楽しさや充足感、創造性などと結びつけられるが、教育においても必要不可欠な要素である。
禅仏教では「遊化(ゆげ)」「遊戯(ゆげ)」などという。「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門(しょうもん)とせり」とは『弁道話』の有名な言葉である。悟境に遊ぶ禅僧の自由自在な心地の表白、「無罣礙(むけいげ)」の心である。これは明らかに人間の求める理想的な心境の一つである。そこに至る方途は、禅宗では日々の参禅・修行以外にはない。一方、一般社会においても、さまざまの技芸の至道にはこういう境地があるように思う。
最近、画家・北川民次(きたがわたみじ)の紹介番組を見た。静岡生まれで、晩年は妻の実家のある瀬戸市にアトリエを構えて絵画教育にも尽力した人物だ。栄のCBC会館の外壁にある「芸術と平和」の大モザイク壁画は有名である。氏の作品の中に「夏の宿題」という題の絵がある。いかにも憂鬱そうな暗い顔の少女が中央に座っている。背後には、教育者めいた偉そうな大人たちが彼女を見下ろして、まるで監視しているようだ。息の詰まる光景である。絵画芸術の持つ発信力を信じていた作者の現代教育への批判と皮肉が伝わってくる。ふと思った。この絵に込められた想いは、今の教育にも向け続けられている。遊びのない教育は人を育てない。高等教育の現場でも事情は同じだ。「脱ゆとり教育」が叫ばれているが、そういう仕掛けを工夫しなければ、魅力的な教育現場にはならないと肝に銘じた。