愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅の一言  令和元年度

現代的知の「遍参」(著・所長 岡島秀隆)

古代ギリシアには、知の爆発という言葉が当てはまる思索活動の高揚があった。中世ヨーロッパではルネサンス運動が勃興して再び知の爆発があった。万能の天才が登場したのはこの時代であった。その後も産業革命など大きな社会変革の時代には様々な創造的知の躍動が見られた。日本の明治期の「文明開化」もそうした変容と飛躍の時代であった。知の爆発はしばしば人間社会を襲ってきた。そして今日も、こうした状況が到来している。だがそれは、過去のそれと大いに異なるようだ。第一に今日のそれは地球全体を巻き込んだ連鎖爆発である。第二にそれはいつ収束するか予測不能な長期的なものになる可能性がある。第三にそれは人類の未来とその存続に大きな影響を持つと考えられる。第四にそのスピードは想像を超えているのである。

さて、このような時代にあって、道元の「遍参」の解釈は示唆に富んでいる。この語は本来善知識を諸方に尋ねる行為を指すが、禅師は玄沙道(げんしゃどう)の「達磨不来東土(だるまふらいとうど)、二祖不往西天(にそふおうさいてん)」の参究を取り上げ「等閑(とうかん)の入一叢林(にゅういつそうりん)、出一叢林(しゅついつそうりん)を遍参とするにあらず。全眼睛の参見を遍参とす、打得徹(たとくてつ)を遍参とす。面皮厚多少(めんぴこうたしょう)を見徹する、すなはち遍参なり」という。一処に止まるも参究に徹することこそが本当の遍参であるというのである。交通手段が進歩した現代は、直接海外に赴き研究を進めることが容易となった。一方、ネットを用いれば一処一室に留まって知の大海へ乗り出すことも可能である。知の遍参は新たな局面を迎えている。問題は知の量よりも知の質であり、いかに深く洞察し新しい創造に繋げるかである。それにしても、令和時代の知の宇宙は限りない。遍参する自己を堅持するのはなかなかに難しい。

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