本書は、曹洞宗太祖の瑩山紹瑾(1264-1325)が著したとされる『坐禅用心記』および『三根坐禅説』について、元駒沢女子大学学長で現在金沢市大乗寺専門僧堂の堂長を務める東鱆チ氏が解説したものです。
『坐禅用心記』は、坐禅を実践するための心得を記したものですが、道元の『普勧坐禅儀』が釈尊から歴代の祖師が正しく伝えてきた坐禅の意義・伝統、心得、方法、功徳などを示した、わが国最初の本格的な坐禅の指導書であったのに対し、『坐禅用心記』は、それを基調に、坐禅を学ぶものにとって必要な、より細かな具体的な注意点が分かりやすく述べられているものです。
一方、『三根坐禅説』は、坐禅を学ぶ人の機能・能力を上根・中根・下根の三種に分け、それぞれに対して坐禅の要訣を説いた短編です。
坐禅を学ぶことは、坐禅の知識を深めるのではなく、坐禅を実行することです。頭の中だけの学習では『坐禅用心記』や『三根坐禅説』を正しく受け止めることはできません。しかし、実行すればいいわけでもなく、正しい指導者に就いて学んでいくことが肝要です。そうすることによって、両書に説き示されていることが、文字や言葉を超えて、よりよく、受け止められるはずです。
坐禅に関心をお持ちの方に、一読をお勧めします。
禅宗は中国で誕生したもので、菩提達磨を初祖として発展し、やがて、わが国にもたられ、日本文化の形成にも大きな影響を与えています。
わが国への禅の本格的な伝播は、鎌倉時代(十三世紀)からで、それは中国宋代の禅を受容したものです。宋代の禅は、唐代の禅を基礎として発展したもので、唐代は中国禅宗の成立期に当たり、禅宗の最も活気に満ちた時代でもありました。本シリーズで採り上げられるのは、慧能・神会・石頭・百丈・潙山・趙州・洞山・臨済・雪峰・曹山・雲門・法眼の十二人の唐代に活躍し、後世に多大な影響を与えた禅僧たちです。
本シリーズは、禅の思想や歴史を解明していく上での原点とも言うべき唐代の禅僧にスポットを当て、各々の人物像・思想を明らかにすることを狙いとしています。執筆陣は、現在、禅宗史研究において第一線で活躍中の国内の研究者たちです。語録や燈史(禅の歴史書)などの史料を駆使して、しく解説されており、しかも、一般の読者にも分かりやすいようにとの配慮がなされています。
研究者や関連分野を専攻する学生ばかりではなく、禅・中国思想に関心を抱いている一般の方にも、お勧めいたします。
二〇世紀の前半に、禅の精神を世界に広めたのが鈴木大拙です。その大拙の思想を中学生に伝えるために、当初、本書は著されました。とは言え、その内容は大人にも十分に読みごたえのあるものです。しかも、それは大拙の言葉を通しての、禅の優れた解説書にもなっています。
著者の大熊氏は、本書のどの章から読んでもかまわないと述べています。しかし、この本の真価は、やはり章立てに従って読み進めた時に最もよく現れるでしょう。
初めの部分では、私達が日頃から親しんでいる言葉や考え方が題材になっており、読者はそれが禅の思想だと意識しないかもしれません。ところが、その内容は次第に禅的なものになっていき、やがて、私達は大拙の語る禅の核心へ導かれていることに気づかされます。その筆の運びは実に鮮やかです。
ただし実際のところ、本書の全体が直ちに中学生に理解できるとは思えません。その点は、著者も、そして大拙自身も認めています。「その智慧の宝庫の鍵は、忍耐強い、辛苦にみちた精神的戦いののちにはじめて与えられる」。むしろ、本書は中学生をも含む読者にとって、その智慧の宝庫のありかを示す案内図と言うべきなのかもしれません。
本書は釈尊と弟子達の言葉を手がかりに、現代の私達の生き方を考えることを目指す「シリーズ・仏典のエッセンス」の中の一冊です。このシリーズには本書の他に、釈尊の言葉を伝える「スッタニパータ」「ダンマパダ(法句経)」「大パリニッバーナ経(涅槃経)」と、女性の弟子達の言葉を伝える「テーリーガーター」の4冊が刊行されています。
本書が取り上げる「テーラガーター」は、釈尊の男性の弟子達の言葉を集めた経典です。彼らは、「ブッダ」である釈尊の教えに従って修行を重ね、ついには自らも「目覚めた人」、すなわち「ブッダ」になった人達です。
その数多くの「ブッダ」達は、何に悩み、何に苦しみ、何を求めて努力し、そして何を体得したのでしょうか。私達と同じように、もともと人生の中で様々な煩悩に苦しんでいた彼らであればこそ、私達はその告白を読むことで、私達自身が抱いている様々な苦しみから逃れ、真の心の安らぎを得るためのヒントを得ることができるでしょう。
平易な語り口で、巻末には読書案内もついており、仏典に親しむための格好の入門書となっています。
本書は、先に『がんばれ仏教!』(NHKブックス)を上梓した著者と、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマとの対談の記録です。
著者の上田氏は、かつては仏教に何の期待も抱いていなかったといいます。しかし、志ある僧侶に出会ううちに、今では仏教こそが現代の人々の苦しみを救う力になると確信し、日本仏教の再興を目指す精力的な活動を続けています。その手掛かりを求めて行われたのが今回の対談です。
対談の中で、ダライ・ラマは一貫して、人間は社会的動物であり、その社会を成り立たせているのは愛と思いやりだと主張します。その上でダライ・ラマは、私達は釈尊の教えであっても盲信してはならず、信仰は常に論理に裏付けられていなければならないこと、そのためには徹底して仏教を勉強する必要があること、そうして身につけた仏教の教えを実践するためには、愛と思いやりにもとづいて、社会の不正に対する怒りと、人々を救おうという執着を持ち続け、自らが釈尊に負けないように努力することが必要だと説いています。
本書には、仏教の復興にかける二人の情熱と、対談の場における炸裂するエネルギーがそのまま記録されています。そのため、読者もその場にいるような思いで、本書を読むことができるでしょう。
「仏教の最も根本的な存在意義は、人々の苦しみを取り除くことにある」。それ故、仏教が「現代に生きる思想であれば、今まさに起こっている生と死の様々な問題に、現実的な回答を準備できなければならない」。本書はこのような立場にもとづいて、人間の生と死の問題を仏教の立場から論じた著作です。
まず一章では、人間の誕生と死を複合的な視点からとらえることの重要性が指摘され、二章では「人間の尊厳」の仏教的な解釈が示されます。その上で、三章と四章ではこの「尊厳」を守るために、私達が臓器移植や脳死、クローン、人殺しの問題にどのように向き合うべきかが論じられます。
著者の木村氏は本学教養部准教授。同氏の基本姿勢は「仏教の基本理念を難解な仏教語に頼ることなく説き明かしつつ、それを「きれいごと」では済まし得ない現実の社会に活かしていく方途を模索」しようというものです。
しかし、個別の問題に、著者は必ずしも明確な回答を示していません。それは、人間の生と死の問題に対して、画一的な答えはなじまないという理由によるものです。むしろ、本書を参考にしながら、読者一人ひとりが自分なりの答えを見出すことが求められていると言えるでしょう。
老後の初心を忘るべからず。本書は、能を大成した世阿弥が『花鏡』に記したこの言葉に導かれながら、六〇歳の初心を生き抜く著者の講演、随筆集です。
一章には、「体は老いても、心が老いることはない。それどころか、年とともに志はますます充実していく」と語る著者が、先人達の名言を指針に生きることを説いた講演の記録が収められています。
二章には著者のおりおりの法話が収録されており、三章と四章では禅僧の言葉や生き方が紹介されています。とりわけ、ここでは愛知県にゆかりの禅僧が多く取り上げられている点に特徴があります。そして五章では、著者が薫陶を受けた恩師や友人達の忘れられない思い出が様々に語られます。
著者の川口氏は本学教養部の教授です。「還暦を迎え、今までの人生を省みて、将来の心構えを改めて考えてみる機会」にしようと著した本書は、若き日に「自分の背の高さまで本を書きたい」と公言し、今なおその志を追い続けている著者にとっての「初めての啓蒙書」だということです。しかし、その中身は親しみやすく、読者に生きる指針と勇気を与えてくれる一冊です