中世には、官寺所属の身分を捨てて、都市に住みながら、布教生活をする僧侶が現れました。著者はそれを「遁世僧」と呼んで、この遁世僧によって、鎌倉新仏教が生まれてきたことを述べています。
本書では、遁世僧と都市の関係に注目しながら、鎌倉新仏教の、従来の仏教とは違う新しさを、鎌倉新仏教は都市民の救済を第一義としていた、という視点から追究しようとしています。
遁世僧としては、本書のタイトルにもなっている親鸞・道元のほかに、浄土宗の祖である法然や鎌倉建長寺を開創した蘭渓道隆という同時代を生きた人物を取り上げて、論じています。
また、鎌倉とそこに生まれた鎌倉新仏教の諸寺院との関連の上で、禅と律宗が広く展開したことを述べています。
更には、鎌倉をモデルとした地方都市として、山形県に注目して、寒河江慈恩寺と山寺立石寺を取り上げ、鎌倉に現れた禅・律両宗の展開という中世的動向が、地方都市でも見られることを論証しています。
日本仏教の一大転換期である鎌倉時代の宗教界の動向を知る上で、絶好の一書と言えるでしょう。
立松氏は、2007年に上梓された『道元禅師』の著者で、一昨年1月に106歳で遷化された永平寺貫首宮崎奕保禅師との親交を持ったことでも知られる作家である。
本書は2つの部分で構成されている。前半は、「自伝」である。栃木県から上京した多感な青年時代、父の日記にみる戦争時代の父のこと、宇都宮で過ごした幼児期から少年時代を、禅語や経典の文句を交えて綴っています。
後半は、「禅語に学ぶ、生きるヒント」と題して、様々な禅にまつわる言葉を解りやすい文章で解説しています。その冒頭の章で立松氏は、宮崎禅師の「禅師などといわれて世間の人にあがめられておるが、わしはなんも偉くない。わしはただ師匠の真似をしてきただけじゃ。(中略)一日真似をすれば一日の真似、一年真似をすれば一年の真似、一生真似をすればやっとほんまもんになる」という言葉を引いて、「私はこの言葉に禅的な生活が語りつくされていると思うのだ。(中略)学道をするということは、すべからく先人の真似をすることだといってよい。」と述べています。
人生に息詰まった時には、禅語の中に先人の足跡を探り、その真似をすることによって、生きるヒントを見出しては如何でしょうか。
なお、立松氏は、本年二月にご逝去しました。ご冥福をお祈りします。
現代社会は、社会の変化に応じて価値観が多様化しており、昔の習慣や考え方が通用しない世の中になっています。仏教の世界も同様で、現場の僧侶たちも、昔ながらのやり方では、教化伝道することが難しくなってきています。
本書は、そういった問題に直面している現代の仏教界にあって、現状を分析し、未来への展望を試みるということを目指して論じられた対談を収めたものです。
著者の奈良氏と山崎氏は、それぞれ曹洞宗と浄土真宗本願寺派に属する仏教研究者で、一般的には自力と他力というかたちで対照的に語られる禅と念仏の立場から、現実的な視点に立って、仏教信仰のあり方を探り、現代社会における仏教の意義について論じています。
この中で、仏教の目指すところは自己の確立(自利)と他者の救済(利他)にあるとして、仏教者がいかに社会と向き合っていくかということを議論しています。
また、戒律(清規)の問題にも触れ、在家的な生活をしている僧侶たちの、現代社会における「出家性」や善悪の問題、葬祭の今日的な意義についても、語っています。
みなさんも、本書を手掛かりに、現代仏教について考え、これからの人生の糧にしていただきたいと思います。
本書は、仏典を従来の固定観念から解き放ち、「今日に生きる思想書」として読み込もうという試みです。しかし、それは単に啓蒙的な分かりやすさを狙うものではありません。むしろ、十分な問題意識のもとで、恣意的な解釈を排し、批判的な検討を行おうとするものです。
このような観点から、本書ではインド、中国、日本の十三冊の仏典を取り上げます。そこに共通する視点を著者の言葉で表せば、「異形の他者」もしくは「異質性」の探求となるでしょう。
仏典の思想を、伝統教学の正統性を証明するものではなく、それを危険に曝すものとしてとらえてみる。あるいは、仏教をブッダの教えから直接生まれたものではなく、ブッダの死後、その死を乗り越えようとしてできたものだと考える。同様に、日本の仏教はインドや中国のそれと同じではなく、異なる文化の中に土着化したものだと理解する。さらに、仏教は純粋な思索の結晶ではなく、それぞれの時代の習俗や社会制度と結びついたものとして受け入れる。つまり、古典の中に現代との同質性を見出すのではなく、異質性を探っていく。そうすることで、はじめて現代を相対化し、現代を考え直す視点が得られるのではないか。
著者のこの試みは刺激的です。しかし、難解極まりないものではありません。古典を現代に生かすとはどういうことか。再考を促す一書です。
「お釈迦様の素晴らしさ」を語り、「釈迦の教えで生きることの意味」を伝えたい。そんな思いで、二年間、朝日新聞に掲載された百編のコラムが、一冊の本になりました。
修行とは「誠実に務め励むことに人生の価値を見いだす」こと。間違ったら直せばよいし、失敗したらやり直せばよい。「そうやって日々、迷い考えながら正しい方向を求めて努力していく。そこに仏教が目指す生き方がある」と著者の佐々木氏は語ります。
佐々木氏は古代インド仏教研究の最前線に立つ気鋭の学者です。その学識に支えられた語り口は軽妙洒脱。おまけに、専門の領域を超えた幅広い関心と交友が、様々な話題を提供してくれます。タイの洞窟でキングコブラと夜を明かした日本人僧侶の話や、ハンバーガーを食べる生き仏の話、あるいは自殺は罪悪ではないという話など、どれも興味深い一方で、示唆に富むものばかりです。
時には、現代の日本仏教界への批判を交えながらも、釈迦に対する限りない敬愛の念があふれる本書は、現代人に仏教を説く絶好の「紹介パンフレット」になっています。
禅宗寺院では、しばしば陀羅尼と呼ばれる経典が使われます。ところが、この陀羅尼は、見ても聞いてもチンプンカンプン。何を言っているのかわかりません。でも、それもそのはず。陀羅尼はインドの梵語の発音を、そのまま漢字で表したものなのです。
もちろん、それにはワケがあります。日本の言霊信仰と同様に、言葉には力がある。だから、言葉をそのまま発音することが大事であって、それを訳してはいけないという信仰があったのです。
けれども、やはりその意味を知りたいというのは、多くの人々の思いでしょう。
本書には、姉妹書の『ナムカラタンノーの世界』が取り上げた「大悲呪」以外の四篇、「楞厳呪」「仏頂尊勝陀羅尼」「消災呪」「卻瘟神呪」の口語訳と解題が収められています。また、巻頭には禅宗におけるお経の誦み方や、陀羅尼を唱える理由という、興味深い解説も掲載されています。
本書は、臨済宗の学僧が中心になってまとめたものですが、曹洞宗や黄檗宗の立場も取り入れて、バランスのとれたものになっています。また、同じ陀羅尼を用いる天台宗や真言宗の作法にも注意が向けられています。禅宗僧侶のみならず、仏教を学ぶ一般の方にもお勧めの、ユニークな一冊だと言えるでしょう。