道元禅師の詩歌は、故・川端康成氏がノーベル文学賞受賞スピーチに引用した和歌「本来の面目」が有名ですが、他にも多くの漢詩が残されています。中国留学中から日本帰国後に到るまで、折々の時節に詠まれた150首が、『永平広録』巻十「玄和尚偈頌(げんおしょうげじゅ)」に収録されています。
道元禅師の俗系である村上源氏には、詩歌に秀でた人が多く、ご自身も詩人として高く評価されています。その漢詩は日々の修行生活に合わせて、悟りの境涯を詠み込んだものです。例えば、中国で観音霊場に参詣した際には、観音菩薩の真面目を示しました。山居(さんご)の時には、静寂なる環境の中で『法華経』を読誦することを喜びました。そして、禅を志す人たちへは詩を通して激励し、修行僧達とともに中秋の名月を詠み競う様子も見られます。
よって、道元禅師の人となりを知悉(ちしつ)するためには、この参究が必要不可欠ですが、原文をただ読んでも、理解は困難だと思われます。その点、本書は『永平広録』研究の第一人者である大谷哲夫氏によって、全詩に訳注と詳細なる解説が付記されていますので、初心者には良い手引きとなることでしょう。 『正法眼蔵』では知り得ない道元禅師の日常を、本書から学ぶのはいかがでしょうか。
道元禅師の思想を学ぶ人には、二つの態度があります。一つは、従来の曹洞宗学のように、留学を終えて帰国した道元禅師は思想的に完成され、もはや変遷はないと見る方法です。一つは、近年に多く見られますが、道元禅師の教えを時系列的に配置し、その変化を考察する方法です。
著者の船岡氏は後者の立場を取ります。歴史学的な考察を通して、道元禅師の俗親や、修学の状況、京都から越前への移転など、伝記上の諸問題について、先行研究を踏まえつつ明快に解説しています。
その上で、原文を多用しながら、道元禅師の説法( 示衆(じしゅ)・著述)の実施状況を考慮し、伝記の中に位置付けています。特に本書後半では、『正法眼蔵』の75巻本と12巻本とを比較考察しています。その際、弟子の徹通義介(てっつうぎかい)が『御遺言記録』の中で、晩年に道元禅師の教えが変化したと記録したことを受けて、法性の働きを重視する前半期から、叢林修行の実践面を強く打ち出す後半期への変化を、改めて仏教の基本を弟子に伝えるものだと評価しています。
本書の態度は、道元禅師の伝記を学ぶ初心者にとって、良い参考書となります。著者には『道元と正法眼蔵随聞記』(評論社・1980年)もありますが、合わせて参照されると良いでしょう。
昨年、秋に起きた噴火によって御嶽山が信仰の山であることを認識した方も多いと思います。日本人は仏教伝来以前から山の神霊を信じ、心のより所としてきました。神道・仏教・陰陽道とも似て非なるこの信仰は修験道として形を成しました。寺院内の僧侶が教理を探求し、民への救済をはかる出家者主体の仏教とは異なり、民の側からの救いを求める心が日本的な仏教を成立させる原動力となったと著者は唱えます。
特筆すべきは、各章ごとに市井において教えを説いた聖ひじりと呼ばれる半僧半俗の存在に焦点が当てられていることです。本書では山岳信仰以外にも全国にみられる観音霊場巡礼、弘法大師・空海にまつわる八十八ヶ所巡礼にも言及しています。各地の聖に関する逸話が観音菩薩や弘法大師の伝説に置き換えられ、巡礼という信仰形態を完成させる上で果たした役割を丁寧に解説しています。庶民にとっては聖こそが現実的に人々を救済する慈悲行の実践者であり、宗派にとらわれないからこそ行われた幅広い活動に民間信仰の淵源を見る姿勢は興味深いものです。
この他にも葬儀や寺院内で行われる法要・祭礼の失われた意味を探るため、その起源を踏まえた解説がなされており、我々が宗教儀礼を目にした際に感じる疑問を解消させる一冊となっています。
従来の仏教研究は、古典的な文献研究が中心でした。その主な理由は、釈尊のみならず、我が国の各宗派の開祖が古代から中世に活躍した人々であり、その思想は、彼ら自身の著作によらなければ理解できないと考えられてきたからです。
しかし、近年になり、「近代仏教」の研究書が多く刊行されるようになりました。その背景には、「仏教」とともに、「近代」の捉え直しが不可欠になってきたという世界の現状があります。また、そうした捉え直しの結果、従来の「仏教」観は、近代の所産だということが徐々に明らかにされてきました。
本書には、国内外の十数名の研究者の論文が、四部にわけて収録されています。
第一部では、私達の知っている「仏教」が、近代以前のそれとは異なるものであることが明らかにされています。第二部では、近代仏教の成立過程が国際的な視野から検討されており、第三部では、アジアにおける近代仏教の展開が論じられています。そして第四部では、近代仏教と伝統的な仏教との比較考察がなされます。
仏教研究の最前線で、アジアや欧米をも含む視点から、近代の日本を振り返る。本書の意欲的な試みは、「仏教」研究のみならず、様々な分野への問題提起をはらむものだと言えるでしょう。
灌頂(かんじょう)とは、「水をそそぐ」が原意で、古代インド国王の即位儀礼において、新しい国王に水をそそいだことが、仏教に取り入れられたと言われ、その起源は、紀元前一千年であると考えられています。その後は、インドにとどまらず広くアジア全域に広まり、ヒンドゥー教や民間信仰、土着の宗教とも融合して今日に至っています。
日本においては、密教儀礼として伝播されましたが、宗教行為を対象とした儀礼研究は、これまであまり触れられていないのが現状です。灌頂の研究も「ようやくスタートラインにたったところ」と、編者の森氏は述べています。
本書は、2011年11月5、6日に金沢大学国際文化資源研究センターで行われたシンポジウム「灌頂―王権儀礼のアジア的展開」の成果をふまえ、灌頂の成立と、各地域でどのように展開したのかをインド、チベット・ネパール、中国・東南アジア、日本の四つに分類し、各地域を専門とする執筆者が考察をかさねています。また、建築学、日本史、美術史といった他分野からのアプローチもなされています。
新たな分野を解き明かすだけでなく、一儀礼がアジアの各宗教に果たしてきた影響力にも触れる興味深い一書です。
本書は、外務省で情報分析官として活躍し、任期中に背任容疑で逮捕されて職を辞した後、現在は文筆家として注目を集めている著者の公開講座をまとめたものです。佐藤氏は同志社大学神学部出身という、外交官としては異例の経歴の持ち主です。『サバイバル宗教論』という表題にはキリスト教神学を通し、紛争や経済的危機に直面している人々に生き抜く力を与える意図が含まれています。
神学の立場を主軸とするものの、取り扱われる事例は沖縄米軍基地問題、アラブの春、冷戦時代の東欧情勢など多岐にわたります。これは筆者が多民族によって構成されるロシアの担当官であったことや、沖縄に自身のルーツを持つことが大きく影響しています。実際に現場を見てきた経験にもとづく洞察はその主張に説得力を与え、そこに神学者としての視線が加わった時、現代社会の抱える諸問題への新たな対処法が浮かび上がります。
また、印象的であったのは、時に「葬式仏教」と揶揄(やゆ)される仏教と日本の現状を評価する姿勢です。生物として避けられない死の受け皿として機能する仏教に、キリスト教にはない「強み」を見出し、むしろ積極的に打ち出すべきと筆者は述べています。