現在、曹洞宗では永平寺と總持寺を両本山と称し、それぞれの開山である道元禅師(一二〇〇−一二五三)を高祖と、瑩山禅師(一二六四−一三二五)を太祖と称しています。しかしながら、一般的には瑩山禅師の名は、あまりよく知られていないのが現状でありましょう。
『洞谷記』は、瑩山禅師の晩年の日記を中心に編集された貴重な史料です。そこには、禅師が開いた永光寺(石川県羽咋市)の開創前後から禅師示寂までの様子や、その折々の禅師の思いなどが綴られています。それによると、禅師は總持寺よりもむしろ永光寺を重要寺院と位置づけ、曹洞宗の法燈が永光寺に引き継がれたことを主張しています。そのために『洞谷記』は後世に編纂されたようであり、現存する写本には二系統四本のものがあります。本書はこれら四本の『洞谷記』の写本を翻刻し、四段に配列した対照資料で、代表的な二写本の影印版を付録として掲載しています。さらに、解題として『洞谷記』の編集意図や、現存する四本の成立過程についての考察が、詳しく述べられています。
今後現代語訳を施したものを出版する予定です。そちらと合わせて読むことによって、曹洞宗草創期の一面を知ることができるでしょう。
本書は、本学より博士号の学位が授与された論文を中心に書籍化されており、著者である角田氏の研究を集大成している。本書は、道元禅師に関する先行研究を網羅するように調べ、比較し、その上で再度道元禅師のテキストに当たって真意を探り、最終的に筆者の見解を導くという丁寧な研究が行われている。つまり、道元禅師研究の現状を知るためにも、必ず読まれなくてはならない。主論文である「道元禅師の思想的研究」は、序論に「宗学研究論について」「仏教史における道元禅師の位置」「『正法眼蔵』の文献学的研究」の三篇を置いて筆者の基本的立場を表明し、続く本論は「序説 道元禅の核心」と「修証観」「修道論」「世界観」「時間論」「因果論」「仏性論」「身心一如説と輪廻説」「言語表現」「教化論」等の全九章、結論からなり、更に附論を三篇収録している。なお、この本論には、一時駒澤大の研究者に流行した批判仏教への応答も含まれる。それは、仏教学の進展によって明らかとなった仏教思想と、曹洞宗学との正しい位置関係を明らかにする営みであるといえる。本書の内容は研究者向けで難解だが、道元禅師研究を志すのであれば時間をかけて読み、筆者同様に丁寧に研究していく手がかりを得るべきであろう。
日本人の宗教観は多種多様です。神や仏をはじめ、巨木や巨石、山岳などの自然や各地に点在する霊場といった空間、曼荼羅を代表とする宗教美術などに対して信仰がなされてきました。
本シリーズは「日本人にとって宗教とはどのような存在か」という課題を設け、時代を近世から近代に限定し、歴史学や宗教学、思想史、民俗学など様々な学問から答えを見出そうとしています。
第一巻「将軍と天皇」は、朝幕関係や天皇・公家・門跡が果たした宗教的役割について考察しているのに対し、第二巻「神・儒・仏の時代」では宗教者や民衆の意識、さらに民衆宗教の具体的な事象について書かれています。第三巻「生と死」は様々な学問領域の視点から死生観の研究が修められ、第四巻「勧進・参詣・祝祭」では民衆の聖地巡礼や参詣の意識とそれに対応する宗教者の動向について事例を踏まえ論じています。第五巻「書物・メディアと社会」は近世・近代の出版事業に焦点を当て、刊行物が宗教と社会に及ぼした影響の検討について考察がされています。第六巻「他者と境界」は女性、差別、宗教的異端などの問題を扱い、蝦夷地、琉球の異文化も焦点をあてた論文が収録されています。
本シリーズは、近世・近代の宗教について多角的な議論を展開し、日本人と宗教の関わりの解明を試みたものとなっています。
本書は本学文学部教授・木村文輝氏が住職を務める顕光院において三代に渡って行われた法話の集成となっています。書名にある「三代」とは現住職を含む歴代住職の三人を指し、半世紀に渡り「ほとけの教え」を在家の方々へ丁寧に説かれてきたことを表しています。第一部に先々代の義祐氏、第二部に先代の自佑氏、第三部に現住職の文輝氏の法話を収録した三部構成となっています。各住持の法話で時事問題がとりあげられており、仏教の視点からの対応を意欲的に試みられます。戦後から高度成長期、平成の不況と社会情勢は時代により違っても、日本人は常に息苦しさ・生きにくさと隣り合わせに生活を送ってきました。米国留学の経験がある自佑氏は、変動する世界の中では日本人の持つ勤勉・謙虚・誠実という「心の文化」が必要となると説きます。文輝氏は大学での研究を反映し、インドから中国禅にわたる幅広い仏教の智慧により社会問題の解決法を探ります。三人の住職が刑務所の教誨師を務められており、どの法話も愛語の精神に基づいています。愛語とは「人々に優しい心を起こし、それを伝えていく言葉」と文輝氏は述べます。愛語によって救われた人がさらに愛語を発し、救いがつながるようにと願う心を感じる一冊です。
かつて愛知学院大学でも教鞭をとられた筆者の、待望の日本仏教史が刊行された。仏教の教えは、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学(さんがく)からなるとされるが、生活規定の戒、智慧(知識)の慧は学びによって身に付けることができるものの、実践である定は、身をもって体験することによってしか習得できないものである。この点から、仏教は、学(がく)と行(ぎょう)の視点から捉え直すこともできる。『仏教瞑想論』(春秋社、二〇〇八年)の著作もある筆者は、瞑想を中心とした実践の行に、常に関心を向けてきた。まえがきに筆者自ら記すように、すでに日本の仏教史は、仏教学的な視点からも、歴史学的な視点からも、充実したものは世に出されている。しかし、学と行といった視点から、日本の仏教を通史的に眺める試みは、いまだ本格的になされてこなかったようである。本書では、悟りを得るために行われた実践修行に焦点が当てられており、それは伝統的に「止(し)と観(かん)」と呼ばれたものにあたる。心の働きを鎮めるためになされる「止」と、〈一切を不浄である、空(くう)であると心の中で確認すること〉と〈対象に注意を振り向けること〉(念処)の双方を「観」と捉える点に日本仏教の特徴があると筆者は指摘する。禅の伝統は、仏教における行(実践)を代表するものともいえるが、本書を通して、ぜひ日本仏教の伝統に流れる実践の歴史に触れて欲しい。