本書はこれまでに刊行された『禅の語録』全20巻を総括する1冊です。禅の系譜ともいえる伝燈をもとに、達摩から六祖慧能(えのう)、五家七宗へ連なる祖師の生き様が網羅されています。禅宗の特徴を伝燈・問答・清規(しんぎ)の3つの観点から考察し、唐宋代の仏教界に生まれた禅の気風を浮き彫りにします。
仏教における悟りは個人の体験による所が大きいです。しかし、禅宗では個々人の悟りを共通体験として紐づけ、時間と場所を超える「想像の共同体」とつながることを理想としました。伝燈とはその過程を1本の蝋燭から別の蝋燭へ灯火を移すことに喩えたものです。
今後現代語訳を施したものを出版する予定です。そちらと合わせて読むことによって、曹洞宗草創期の一面を知ることができるでしょう。
また、禅は自力門といわれますが、個人の求道のみで修行は完結しません。師と弟子の間で問答を通じて行われる、むき出しの自己の交流により、自身の悟りが師や古の祖師達と同等であると認可されなければなりません。それ故に問答は修行者の体験を点検するため重視されました。そして、中国で独自に発展した禅宗は、権力や都市から離れたことで、仏教誕生より堅持してきた戒律とは別の規範、清規を作るに至ります。
以上の3点を公案を例に挙げて解説しています。総括としての性格が強い1冊ですが、初めて禅の語録に触れる方にも最適の良書です。
ここ数年、各出版社から刊行された「禅語」を紹介する書籍は多数に上っています。そのため、派生的な内容を持つ書籍も刊行されるようになりました。例えば、禅と掃除、禅と食事、怒りを鎮める禅、などは生活の中に活かされる禅という意味で、従来期待されていた禅の役割や機能と重なりますが、スターウオーズと禅といった書籍は、禅が持つ自由闊達さだけでは説明の付かない事態です。
本書も、禅語の紹介から派生した内容を持つ一冊です。50の禅語を紹介しながら、同時に猫の写真集にもなっています。猫の写真は五十嵐健太氏の撮影が主で、氏は「飛び猫」という跳躍する猫の姿を撮ることを得意としています。禅語の監修者は菅原研州氏で、氏は禅語の意義を、禅僧が日常に発した言葉であり、我々の日常生活でこそ活用されるべきだとし、一般の読者のことを考え、極めて平易な言葉で禅語を紹介しています。そして、平易な禅語の解釈と、五十嵐氏が撮る活き活きとした猫の姿が合致し、見る人の心に癒やしを与えてくれることでしょう。
なお、本書は、読者が続けて禅語を学ぶことができるよう、各禅語の典拠となる書籍名が明示されており、禅語の入門書としても十分な内容を持っています。
本書は、『根本中頌』の梵語原典からの翻訳と、龍樹の思想・著作・生涯を扱う解説の二部から構成されています。
『根本中頌』の現代語訳は既に複数出版されていますが、本書は、北京大学の叶(葉)少勇博士が出版した『中論頌:梵蔵漢合校・導読・訳注』(中西書局・二〇一一年)に依拠し、最新の梵語写本研究の成果を反映しています。翻訳に際しては、原文に忠実な訳が目指され、読者それぞれの龍樹解釈の基盤を提供することが意図されています。
後半の解説では、『根本中頌』に対する注釈書や龍樹の他の作品が紹介され、優れた入門書となっているほか、龍樹の生涯について、鳩摩羅什による『龍樹菩薩伝』の新たな日本語訳が掲載されていることも特筆されます。
本書は、仏教哲学に関心を持つ一般読者を想定しているものの、龍樹およびそれに関連する分野の研究者にも必読の書と言えましょう。
紀元前2世紀頃、南インドに現れた龍樹は、インド仏教史において最も著名な人物のひとりであり、日本仏教では大乗仏教の基礎を築いた「八宗の租」とされ、禅の伝統においても、西天二八祖のひとりに数えられます。龍樹には多くの作品が知られますが、『中論』とも呼ばれる『根本中頌』が主著であり、真作であることに疑いはありません。
本シリーズは「日本人にとって宗教とはどのような存在か」という課題を設け、時代を近世から近代に限定し、歴史学や宗教学、思想史、民俗学など様々な学問から答えを見出そうとしています。
第一巻「将軍と天皇」は、朝幕関係や天皇・公家・門跡が果たした宗教的役割について考察しているのに対し、第二巻「神・儒・仏の時代」では宗教者や民衆の意識、さらに民衆宗教の具体的な事象について書かれています。第三巻「生と死」は様々な学問領域の視点から死生観の研究が修められ、第四巻「勧進・参詣・祝祭」では民衆の聖地巡礼や参詣の意識とそれに対応する宗教者の動向について事例を踏まえ論じています。第五巻「書物・メディアと社会」は近世・近代の出版事業に焦点を当て、刊行物が宗教と社会に及ぼした影響の検討について考察がされています。第六巻「他者と境界」は女性、差別、宗教的異端などの問題を扱い、蝦夷地、琉球の異文化も焦点をあてた論文が収録されています。
本シリーズは、近世・近代の宗教について多角的な議論を展開し、日本人と宗教の関わりの解明を試みたものとなっています。
本書は、曹洞宗国際センター所長の藤田一照氏、元曹洞宗侶で東南アジアに留学した山下良道氏、哲学者の永井均氏の鼎談録です。本書のタイトルにある〈仏教3.0〉とは、伝統的な日本仏教に見える葬祭祈祷中心の活動を〈1.0〉、テーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想に基づく諸活動を〈2.0〉としており、〈3.0〉とは近年流行を見せるマインドフルネスに宗教的要素を加え、世間の価値を超えた宗教的真実にまで、人が自ら気づき赴くことができるもの、と規定しています。要するに本書は、「瞑想主体の仏教」の価値を最大限に評価しており、人が自ら慈悲に目覚め、この現代社会が抱える苦悩へ立ち向かうことを促しています。そして、端緒として、三名による問題提起と未来への提言がされています。その上で、あえて本書を厳しく評すれば、仏教が段階的進化を遂げるものとしていることは、今後、その評価の可否を慎重に討議する必要があります。更に、現役の曹洞宗侶が加わっているにも関わらず、本書で語られている坐禅は、従来曹洞宗で語られたものとは似ていないといった違和感は残ります。しかし、災害やテロが世界中に広がることで危機を迎えた人類の未来に、光明を照らす仏教者の試みとして評価できるのではないでしょうか。
昨今、ストレスや疲れなどから解放される手段としての瞑想や心を整える本が注目されています。それは身体とともに、如何に心を健康に保つかということに関心をもつようになってきたからでしょう。
本書は、現代における心のあり方について、仏教的視点から書かれています。まず、「心とは何か」について整理した後、仏教が示した心のあり方について、説明がなされています。四諦八正道、縁起などを取り上げ、心の苦しみについて分析をしています。更に、「悟りの心」のあり方について唯識思想を用いて説明しています。また如来蔵思想では、様々な経典を用いて、煩悩から離れた心から生じる智慧について解説がなされています。
日本においては、心のあり方について浄土宗・浄土真宗の教えの観点から解説したほかに、禅宗が示す心のあり方、密教における心の置き所など、日本仏教における心が探究されています。
現代に見られる出来事を多角的に観察し、見出された知見から、仏教がどのように心を探究してきたかについて、分かりやすく書かれています。様々な場面で「心」の問題が取り上げられる現代だからこそ、あらためて「心」について、学ぶことができる1冊となっています。
近年、近代日本における国家と仏教をめぐる研究が盛んに行われてきました。その一方、敗戦を経た日本仏教の思想について充分な考察がされてきたとは言い切れません。
本書は、戦後より1970年代まで、「日本仏教」の研究をリードした15人の研究者の仏教史研究を、思想史の観点で比較考察した論集です。
鎌倉新仏教研究の基盤を築いた家永三郎氏や日本思想史における仏教の位置付けを試みた中村元氏、本覚思想と戒律問題を取り上げた石田瑞麿氏や田村芳明氏、親鸞の精神をはじめとする浄土哲学については服部之総(はっとりしそう)氏や森龍吉氏を取り上げ、考察がされています。また、社会経済史の観点から日本宗教研究を行った圭室諦成(たまむろたいじょう)氏や、民俗学を援用し庶民救済の実践に着目した五来重氏、近世日本の仏教思想を文化的状況から描き出そうとした古田紹欽氏らを思想的観点から考察しています。
仏教学・歴史学・民俗学など多角的な観点から、戦後作り上げられた日本仏教史像の実態を解明しています。戦後の日本仏教思想の理解に接近するにはお勧めの1冊です。併せて近代日本仏教史の入門書として、大谷栄一他編『近代仏教スタディーズ』(法蔵館・2016年)を参照するとより理解が深まるでしょう。