本書では、職人の修業過程や仕事への向き合い方が、日本曹洞宗の開祖・道元禅師の思想に多大な影響を受けて、今日まで継承されてきたことが論じられています。
著者は、曹洞宗の機関誌である『禅の風』・『禅の友』において、列島の各地で活躍する様々な職人やプロフェッショナルにまつわる連載を10年にわたって行っておりました。取材の途上、永平寺第78世・宮ア奕保(みやざきえきほ)禅師より耳にした、「生活における行住坐臥(ぎょうじゅうざが)のすべてが修行である」という禅僧の生活態度が、職人の生き方と重なり合ったことが本書の出発点となっています。
禅僧の「修行」と職人の「修業」のあいだに見出される共通性が形成されるまでには、能楽の大成者・世阿弥(ぜあみ)の存在が重要な媒介となったことが指摘されています(本書では芸術家も、芸術を専門とする職人として把握されます)。すなわち、道元の哲学が、世阿弥によって芸能の世界へと受容され(世阿弥は曹洞宗の竹窓智厳(ちくそうちごん)に師事していました)、世阿弥の芸道論が社会へ浸透していく過程で、職人の修業過程にも採用され、現在まで受け継がれてきたと見るのです。職人への豊富な取材歴を有する著者ならではの視点が存分に発揮された1冊です。
本書では、大乗仏教の理想を実践する「菩薩」の生き方が概説されます。
著者の船山徹氏は、もともと仏教論理学を専門とされ、近年ではインドから中国に至る仏教思想史について、成果を公刊されています(『東アジア仏教の生活規則 梵網経』・『六朝隋唐仏教展開史』・『仏教の聖者』)。
菩薩が守るべき菩薩戒や、インド・中国の仏教で説かれていた修行体系が原典の記述にしたがって具体的に説明されています。とくに、仏教における修行法の核心である瞑想(坐禅)についても詳しい解説がなされており、インド・中国における坐禅の実践方法や変遷の歴史を知るうえでも非常に有益です。
また、原典からの引用は、すべて現代語訳をして示されているため、非常に読みやすく配慮されています。
なお、本書は「シリーズ実践仏教」の第一巻を飾るものです。これまでの実践に関する概説書では、実践に関する理論への解説が専らでした。しかし、本シリーズでは、より具体的な僧俗の実践(臨終行儀・儀礼・造像・絵画・写経・芸能など)に光が当てられ、各巻において、専門的な知識を前提とせずに読めるよう、分かりやすい解説が行われています。
本書は、右に紹介した「シリーズ実践仏教」の第5巻に当たり、3名の著者が、最新の研究成果を踏まえつつ、現代社会と仏教の関わりについて概説がなされます。
蓑輪顕量著「第1章 瞑想のダイナミズム」では、仏教における瞑想(精神統制)の伝統について、ブッダの時代から現代に至るまでが通史的に叙述されます。仏教的瞑想は、近代以降、アジアという圏域を越えて、欧米などでも実践されるようになりましたが、こうした近現代における展開についても言及されています。これほどの広い地域、長い時代を通覧した解説は、他に例を見ないもので、非常に貴重な成果と言えます。
熊谷誠慈著「第2章 ブータンの実践仏教と国民総幸福」では、ブータン王国の仏教観と宗教政策が概説されます。わが国ではほとんど研究されていない、ブータンにおける仏教(チベット仏教の系統)の現状を概説しつつ、日本仏教との相違点・共通点にも考察が展開されます。
室寺義仁著「第3章 現代医療と向き合う」では、現代医療が直面する倫理的な諸課題に対し、仏教が果たしうる役割について概説がなされます。コロナ禍の今だからこそ、耳を傾けるべきブッダの言葉がいかに多いことか、再確認できる章となっています。
仏教において「悟り」が重要であることは言うまでもありませんが、悟りを志しても「悟れなかった人々」が数多いることもまた事実です。本書の筆者は自身の研究を振り返って、その「悟れなかった人々」を相手にして研究してきたのだと述懐します。
本書では、唐代から北宋初に至る主要な燈史とその周辺の問題が採り上げられています。筆者は、燈史(とうし)を「達磨を祖師と奉ずる禅宗において仏法伝授の系譜をなす祖師たちの言行を記した書」と定義し、『楞伽師資記』『伝法宝紀』『歴代法宝記』『宝林伝』『聖冑集』『祖堂集』『景徳伝燈録』などを考察の対象とします。
その上で、燈史研究の意義を禅思想の解明だけでなく、「非エリート僧らの精神性をうかがうのぞき窓」「禅宗の外に開かれた扉」と表し、より広い視野から中国仏教思想史を捉えようと試みます。
もちろん、各章では専門的な論証が行われているため、禅思想の研究書として緻密であることは間違いありませんが、それだけでなく、筆者が、禅宗成立以前やその背後にある宗教運動を視野に入れた広い構想をもって研究していることを窺うことができるような内容となっています。
栄西(1142―1215)は平安末から鎌倉時代初頭の僧で、臨済宗の開祖とされています。本書はその栄西を中心としつつ、聖徳太子の時代から、奈良・平安期を通じて、日本仏教と禅宗の関わりをまとめた内容となっています。
「日本禅宗初祖」と評される栄西は、二度の入宋を経て、中国宋代の禅を日本に将来しました。栄西の禅の特徴は密禅併修(みつぜんへいしゅう)です。すなわち、栄西の禅には天台や真言との兼修(けんしゅう)という側面があるのです。こうした栄西の兼修禅は、しばしば道元や中国人禅僧たちが伝えた純粋禅と対置されて評価されます。これまで、栄西の禅は兼修的であるが故に過渡的であり、のちの純粋禅に駆逐されるかたちで衰微していったと理解されてきました。
しかし、本書はこうした理解は正確ではないと指摘します。兼修的ではあっても栄西独自の禅思想が認められる上、純粋禅と位置付けられる曹洞宗にも密禅併修の側面があり、さらに俯瞰すれば、禅宗全般として密禅併修という面が形成されたからこそ、禅は日本型禅宗として根づいたと述べられています。
仏教史から見る栄西の本当のすがた、ぜひご一読ください。
本書は、『生死の仏教学』(法蔵館、2007年)の著書もある筆者が、現代日本における宗教および仏教を取り巻く社会状況を考察した、最新の著作です。
第1部は、「無宗教をめぐる無自覚」の題で、現代日本人の宗教観が論じられます。日本人が「無宗教」と称される場合に、そこで否定される「宗教」そのものが未だ明らかでないことが指摘され、「宗教」の意味が改めて分析されます。
「仏法僧をめぐる無意識」と題された第2部では、本書のタイトルにも選ばれている「仏法僧」の三宝を手掛かりに、現代日本社会における仏教の姿を論じています。本書で著者は、「僧」を、サンガを意味する「教団」の意味だけでなく、日本社会で一般的に用いられる「僧侶」の意味でも論じることで、妻帯などを行う日本の僧侶のあり方について、詳細に解説しています。
第3部では、「葬式仏教をめぐる無理解」として、日本仏教を特徴づける「葬式仏教」という概念が考察されています。筆者は、しばしば否定的に語られる「葬式仏教」という表現に対し、葬儀の役割や合理化の限界を指摘し、仏教の意義を再確認しようと試みます。最後に、「布施」について、臓器移植の問題とも関連させながら詳細に検討がなされていることも特筆されます。
本書は、「無自覚」「無意識」「無理解」といった表現で纏められているように、私達が気付くことの少ない日々の宗教的実践の意味に改めて考察の目を向けている点で、示唆に富んだ著作であると言えましょう。