愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成09年度

喫茶去(きっさこ)(著・神戸信寅)

お茶には、栄西の『喫茶養生記』を待つまでもなく、古くから効用や功徳が言われています。その為、喫茶の風習が広まると共に、茶の製法が発達しました。さらに、禅院で茶が珍重されるようになると、仏道修行と深い関わりをもつようになりました。 ところで、この趙州(じょうしゅう)の「喫茶去」も、喫茶の風習が既に禅院の修行生活の中にとけこんでいたことを物語るものといえます。この有名な趙州の「喫茶去」の出典はといえば、『五灯会元』の趙州の章に、新しく修行にやってきた僧に趙州は、いつも「曽(かつ)て此間(すかん)に至るや」と、つまり「まえにここにやって来たことがありますか」と問うのを常としていました。新到の僧が「曽到(はい、あります)」と答えても、「不曽到(いや、ありません)」と答えても、趙州はきまって「喫茶去」と応答したということです。そして、そのことに不審をいだいた寺の院主がそのわけを聞くと、趙州は「院主さん」と呼びかけた。この呼びかけに思わず院主が「はい」と応ずると、趙州はすかさず「喫茶去」といわれたということによります。

一般に「去」は助字で意味はなく、「まあ、お茶をおあがり」とでもいった意といわれています。

一方、『禅語辞典』をみると、文字どおり「喫茶し去れ」と読み、「茶を飲んでこい」、「お茶を飲みに行け」の意と説明しています。どちらにしても、お茶を喫することには変わりはありません。お茶を喫することは、我々も常日頃人に会うと「お茶でも飲もうか」とか、訪問客が来ると「お茶でもどうぞ」と、まずいいます。お茶のもてなしがあればこそ、会話も弾み、互いのコミュニケーションもうまくいくものです。お茶が無いと「無茶苦茶」という言葉もあるように、意思の疎通がうまくいかないということに成りかねません。人によっては、お酒や葡萄酒の方がと思う人もいるかもしれませんが、親睦をはかる懇話会はできますが、ややもすると大トラになって話が脱線しかねません。筋道の通った会話ともなると、まず、お茶でも飲み、惺惺著(せいせいじゃく)と目を覚ましておくことの方がよいかと思います。

特に、禅門では「茶」を行ずることが大切な行持となっています。例えば、修行僧の第一座である首座(しゅそ)和尚の法戦にちなみ、まず本則を大衆(だいしゅ)に披露する時に行われる「本則茶」や、僧堂内で茶を飲む儀式である「行茶」等があります。また二祖三仏忌や各寺の開山忌等、重要な法要にあたって、特に供養する意味で「特為献茶」の式があるというように、禅門ではお茶を喫しお茶を供することに特別な意義を認めています。

道元禅師がこの趙州の「喫茶去」の問答に対して、『正法眼蔵』「家常(かじょう)」の巻で趙州が新しくやってきた僧にいつも「曽て此間に到るや」と、いっていた「此間(ここ)」は跳脱した此間であるから、「曽到(来たことがある)であり「不曽到(来たことがない)」であるといっている。いわゆる此間に「曽到」・「不曽到」することが問題なのではなく、「喫茶去」というお茶を飲むという日常の振る舞い自体が問題であり、そこに仏祖の家風があることを示しております。道元禅師の言葉をかりれば、「しかあれば、仏祖の家常は喫茶喫飯のみなり」ということであります。

(短期大学教授)

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