愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成10年度

平常心是道(へいじょうしんぜどう)(著・川口高風)

「禅」という言葉はサンスクリット語のディヤーナの音訳に起源するもので、心を静めてよく考えるとか、心の定まったことを意味する。

禅僧が坐禅修行に厳しい時をすごすのも、心の定まりが一層純粋であることを求めるのであって、特別なさとりの境地を求めるものではない。この心を定めるということも、心が一定の形をとってカチカチになることではない。生き生きとした自由な心で、平静な判断と実行ができることである。

そこのところを中国唐代の禅匠南泉普願(なんせんふがん)は「平常心是道」といった。これは南泉の弟子である趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の「道とはどのようなものですか」という問いに対して発せられた言葉で『無関門』第十九則にある。

坐禅のめざすところ、禅の心が特別な境地を求めるものでないことをよくあらわしている。しかし、一方「平常の心が道である」といわれると、普段ののんびりした気持が仏道であるかのような誤解も起こしやすい。

ここにいう「道」とは菩提の訳語で、さとりということである。このさとりが特別な境地ではなく、日常の生活をまじめに、実直に、判断を誤らずに生きていくことだというのである。

昨年冬、長野で開かれた冬季オリンビックで日本選手の活躍に一喜一憂した人は多い。多くの観衆の熱狂と興奮の中で、自分の持つ力を十分発揮することがいかにむずかしいことか。インタビユーの答えに「平常心で試合に臨みたい」といっていた選手もいた。しかし、その平常心がむずかしいのである。「火事場のバカカが出れば勝てるかもしれない」という力が平常心でないことはいうまでもない。

ジャンプの原田雅彦選手の活躍は私たちの心に感動を与えた。原田選手は前回のオリンピックで不本意な記録のため優勝を逸している。周囲からは責任問題などととやかくいわれ、大きなプレッシャーとなつていた1本目はそのプレッシヤーのためかうまく飛べない。しかし、2本目には見事、最長距離を記録し、金メダルを獲得した。

感激の涙をながしながら心境を聞かれ「今までやってきた自分のジャンプをする以外にない」と語っていたが、平常心とはこういうものである。

總持寺を開かれた瑩山禅師(けいざんぜんじ)は師である大乗寺の徹通義介から南泉普賢願のいわれた「平常心是道」の意義を問われた。禅師は「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と答えた。すなわちお茶をいただく時は雑念を交えず喫茶三昧に徹し、食事のときは食事三昧になりきることというのである。

あれをしながらこれも行う。これをしながらあれも行うというような”ながら”ではいけない。その時その時を一生懸命に生きることである。

したがって平心というのは、何もしないで出てくるものではない。私たち普通の生活をしている普通の人間も常日頃の生活をまじめに、実直に努力していくところに生まれてくるものである。

身体には病気やけががついて回る。心では喜びもあるが、悲しみ、悩み、嘆き、苦しみがついて回る。これが人間生活である。それらに出会って、それらとかかわりあいながら、平静な判断を失わずに生きていくのが「平常心是道」という禅のこころなのである。

(教養部教授)

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