愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成13年度

空手還郷(著・佐藤悦成)

 道元禅師以前の入唐・入宋僧は、帰国に際して大陸の新しい経典・仏像、または文化・技術などを持ち帰るのが習いであった。それが帰朝僧としての輝かしい業績でもあったのである。

 栄西はお茶の種と文化を持ち帰り、『喫茶養生記』を著して、日本に新たな風儀を加えた。この生き方も重要である。しかし、道元禅師はその方法を採らなかった。禅師は仏法を求めて万里の波頭を越えて入宋したのである。道元禅師でなくとも、他の誰かができることをするために命を懸けたのではない。その自負と、単伝の正法を我が身に付けて帰国したという自信が「何も持って還ってこなかった」というこの言葉に溢れている。

 従来の渡航僧としての習いを破り、真の仏法のみを体得して帰ったことを高らかに宣言したこの言葉の思想的基盤はどこにあるのであろう。

 禅の立場では、自己の本質、本来の姿は観念的・心理的問題に終始して、真理としてそこにただ成立しているというだけではなく、必ず自己との関わりにおいて修・証が伴わなければならない。万法を明確に実相として把捉できる自己を確立する作功夫を「参禅は身心脱落なり」と如浄は示す。それは、生きていることの本質、ここに現実存在していることに対して疑義を挟む余地のない確実さを証すことである。この思想が、禅師独自の凝縮された形で表現されて「自受用三昧」となる。この一語において禅師は、正身端坐すればそのまま仏の身心の現成であり、所生の世界は悟となり、その正覚は坐禅を行ずる当人をして打坐即仏法へと証人せしめ、仏の身心を現成せしめる、と開陳するのである。その嫡々相承され来った仏法の展開が、形を変えて極めて端的に、しかも独自性をもって表現されているのが、「當下認得眼横鼻直、不被人瞞便乃空手還郷。所以一毫無佛法」と記される『永平広録』巻一の上堂である。

 ここに示されている眼横鼻直とは、仏法の証さえもない、何も証してはいないことが総てを証していることに他ならない、という意味になろう。自己と仏法を相対的に考えてしまえば、仏法を自己の上に証すことにはならないのであるから、この一節における禅師の意図は眼横鼻直なることを認得したのみで、いささかも仏法という自己と別なるものを証したのではないことを示すところにあったといわねばならない。何の証もない、証す必要もない自受用三昧の打坐は、逆接的には無限の証として真実絶対の揺ぎない修証となる。その自己とは鼻は真っすぐに、眼は横向きににという何等特別な存在ではない、いまの自己ということである。そのような当り前の自己の存在そのものが「証」であり、その成立は「修」に支えられている。

 「広録」では先の一節に続いて、「朝朝日東出、夜夜月沈西。雨収山骨露、雨過四山低。畢覚如何」と記される。証すべきものはなにもなく、端坐するとき証が自から現前するというのである。道元禅師の只管打坐は、単に師に認められての展開ではない。「人に瞞せられず」とはまさしくそのことを意味している。師に印可証明されるまでもなく、実は印可される前から眼は横向きに鼻はまっすぐであったのである。師に眼を横向きにしてもらったのではない。元来横向きであったのである。

 それ故、道元禅師にとって空手還郷でなくてはならなかったのである。

(文学部教授)

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