愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成16年度

乾屎橛(著・木村文輝)

 床の間の掛け軸。そこにはしばしば禅匠達の言葉が揮毫されています。けれども、掛け軸に記されることのない禅語もあります。「乾屎橛」はその代表格と言えるでしょう。日本語に直せば[糞かきべら」、つまり、排便の後でお尻を拭く小さな木片です。

 10世紀頃の中国で、雲門文偃(うんもんぶんえん)が修行僧から「仏とは何か」と尋ねられました。それに対する答えが「乾屎橛」でした。彼は問答の際に、人々の意表を衝く言葉を用いたことで有名ですが、その中でもこの問答は異彩を放っています。

 それにしても、乾屎橛が「仏」とはどういうことでしょうか。「仏」と言えば、まずは釈尊が思い浮かびます。無論釈尊が乾屎橛であるはずはありませんが、仏教では釈尊の説いた教えも「仏」と呼ばれます。そこで この教えを糸口に考えてみましょう。

 釈尊はあらゆるものを分け隔てせず、同じように接する「同事」の教えを説きました。つまり、浄不浄や優劣、貴賎等の区別を認めない姿勢です。それ故、乾屎橛を不浄とみなして嫌悪してはなりません。この視点は重要です。しかし、「仏」の境地では、見る者と見られる者が一体になることが求められます。そうなると、この解釈では不十分です。

 そこで、今度は乾屎橛の立場に立ってみましょう。あらゆる区別を離れることは、目の前の対象に好悪の感情を抱かず、我執や欲望から離れることを意味します。釈尊は、欲望という名の悪魔を降(くだ)して「仏」になりました。つまり、「仏」は欲望から離れた存在でもあります。このことは、仕事の選り好みをせず、自分の役割に専念し、何の報酬も求めない姿勢につながります。それならば、お尻の選り好みをせず、お尻を拭く仕事を黙々とこなす乾屎橛は、「仏」に近いと言えるでしょう。

 でも、その境地に至るには、自分に絶対の自信がなければなりません。そのためにはどうすればよいでしょうか。

 一枚の乾屎橛が作られるには材料となる木が必要です。その木が育つには大地や空気や水の助けが必要です。さらに、その木から木片を切り出す人間、お尻を拭くために木片を使う人間、使用済みの木片を土に戻すバクテリア等々。乾屎橛は過去、現在、未来の様々なものに助けられて存在しています。しかも、そのものたちも、他の無数のものに支えられています。このように、一枚の乾屎橛は世界のあらゆるものを結ぶ網の目の中心に位置しています。いわば、「乾屎橛」は世界の中の「主人公」なのです。だから、それは自らのあり方を恥じたり、余分な欲望を抱き、それが叶えられないといって嘆く必要はありません。つまり、あらゆる苦しみから離れた状態。これこそ「仏」の境地です。

 雲門の弟子の洞山守初(とうざんしゅしょ)は、「仏とは何か」と尋ねられて「麻三斤」(まさんぎん)と答えました。これも同様の話ですが、「乾屎橛」の迫力にはかないません。また、「乾屎橛」は乾燥した棒状の糞そのものだという解釈もあります。そうなると、常識の打破を目指す禅語としても、「糞が仏だ」という言葉は強烈です。とても、床の間に収まる代物ではありません。しかし、その中に「汝は乾屎橛に負けない生き方をしているか」という問いかけを読み取れば、それは毒気を含みつつも、凡人へのユーモアあふれる励ましとなるのではないでしょうか。

(短大部助教授)

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