愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成18年度

只管打坐(著・吉田道興)

 道元禅師が入宋し、天童山景徳寺で如浄禅師の膝下にて修行中のことでした。ある時、如浄禅師より「坐禅は、身や心から生ずる迷いやわずらいから開放され自由無碍(む げ)(身心脱落)になる。それはひたすら坐禅に打ち込み(只管打坐)始めて得られる。焼香・礼拝・念仏や罪を仏祖に懺悔し、お経を読む必要はない」と教えられ、道元禅師は、長年抱いていた修証問題の疑問を一時に氷解し、「一生参学(学問修行)の大事」を終えたと述懐しています。

その「只管打坐」とは、もっぱら坐禅の一行に徹することで、一般の人が考えるような「修行」を重ね、やがて「さとり」(証悟)にいたるものではなく、また「さとり」を得たり、「ほとけ」になるための坐禅でもありません。

それは修行とさとりを別とせず、さとりのうえの修行であること。初心者の坐禅もさとりの本質(本証)の全体だというのです。それを道元禅師は「仏法には修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり」「一分の妙修を単伝する初心の弁道、すなはち一分の本証を無為の地にうるなり」と述べています。

それは大乗仏教の思想「空」(縁起)に裏づけられた「無所得・無所悟」の坐禅です。すなわち迷いを離れ、あらゆるものにとらわれず、偏(かたよ)らない坐禅です。是非善悪の分別や意識を離れ、先入観を斥け、ただ「無心」に坐すのです。それは、世のため人のために尽くす心(利他行)を内面に秘めながら、自己の尊厳性(仏性)を自覚した「仏作仏行」のおこないであり、文字通り「ほとけを行ずること」といえます。

ところで老荘思想の中、『荘子』大宗師篇に仲尼(ちゅうじ)(孔子)と顔回との対話に「坐忘」という語句が出てきます。顔回が自分は仁義を忘れ、礼儀を忘れ、そして坐忘ができるようになったと語り、その坐忘とは「枝体(=肢体。体や手足)を堕(おと)し聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて大通に同ずることである」と孔子に説明しているのです。

この大意は、身や心の働きや意識を忘れ捨て去り、一切の差別や相違を超越することが、「無為自然」(人為を加えない大自然)の働きに通じ、同化するというのです。それは「無我想」の想念、「無我観」の観法の一面、道元禅師の示す坐禅の心構え「善悪を思わず、是非を菅することなかれ、心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし」(『普勧坐禅儀』)の語句、百丈懐海の大自然と融和し大地に坐す「独坐大雄峰」の世界が想起できます。

また南宗禅の慧能は「頓悟禅」を「この法門は無念を宗となす」(『六祖壇経』)と説き、弟子の荷沢神会(かたくじんね)はそれを「無念禅」としました。さらに「内に無所得、下に無所求、諸位を歴せず、業結せず、無念無作、非修非証」(『祖堂集』)の境地にも一脈通じています。

只管打坐は、あるがままの真実に任せ自在にふるまう「任運無作」の行です。それは如浄禅師の教示に由来しますが、道元禅師はさらに発展させました。すなわち『正法眼蔵』行仏威儀・行持の巻などには坐禅の「一行」にとどまらず、あらゆる威儀・作法・作務を「諸仏の実帰」「仏作仏行」の行持として縦横に示されているのです。

(教養部教授)

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