愛知学院大学 禅研究所 禅について

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禅語に親しむ  平成19年度

眼横鼻直(がんのうびちょく)(著・神戸信寅)

 この眼横鼻直の禅語は、卍山道白刊行(まんざんどうはく)の流通(るづう)本「永平広録」(えいへいこうろく)第一に、道元禅師上堂(じょうどう)の語として、最初に記されているものです。そこには、山僧叢林(さんそうそうりん)を歴(へ)ること多からず。ただ是れ等閑(なおざり)に天童先師(てんどうせんし)に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞(まん)ぜられず。すなわち空手(くうしゅ)にして郷に還る。ゆえに一毫(いちごう)も仏法無し。任運(にんうん)に且く時を延ぶ。朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。雲収て山骨露れ、雨過ぎて四山低(た)る。と、あります。如浄禅師の下で仏法を体得した道元禅師は、眼は横に、鼻は真っ直ぐにあるという、当たり前のことを当たり前に認得して人に瞞(だま)され無いというのです。もし、眼が鼻の下に横たわっていたり縦になっていたり、また、鼻が眼の上であぐらをかいていたりしたら困りものです。改まって、顔を鏡に映し眺めてみると、目鼻は実に合理的にバランスよく、当たり前にあるべき所にあるものと感心します。また、「朝朝、日は東より出で、夜夜、月は西に沈む。」というのも、自然の法則にかなった当たり前の現象です。

 しかし、われわれの日常生活は、我見我執(がけんがしゅう)に執われた自我意識を中心にしてまわっています。その為、当たり前のことや当たり前の現象を、自分の立場を中心にして自分勝手に認識しようとします。そのことが、当たり前でありのままの事実から知らず知らずのうちに離れていってしまい、誤った認識をすることとなります。結局、自己中心的な我見我執に振り回され、心は、右に左に揺れ動き定まらないでいます。それ故、実体のない多くの悩みや苦しみを抱え込み、迷える凡夫(ぼんぷ)としての明け暮れをしているのが実情です。

それでは、迷わない確かな生活をするにはどうすればよいか。道元禅師は、我見我執の自我意識を離れ、当たり前のことを当たり前に、ありのままをありのままに認得することであるといいます。そこに、人に瞞されることのない確かな仏祖の世界があるといいます。

ところで、仏教では「如実知見」といいます。我見我執を入れず、現実をあるがままに知見することです。知見するといっても、対象的・実体的に事物を見たり知ったりすることではありません。一切の事物は、生滅変化していて固定的実体はありません。従って、対象的・実体的に眼横鼻直や自然現象を知見すれば、そのこと自体が、既に事実そのものから外れていることになります。事実そのものから外れず、事実を当たり前であるがままに認得するには、事実と離れず一体と成り切って、実践的に事実を捉えていくことです。それには、自己中心的な我見我執の立場を離れることです。

我見我執を離れ、対象とする事物と一体であれば、右往左往しようが生滅変化の現実世界にあろうが、一体なるが故に、右往左往や生滅変化の事象から外れることはありません。

われわれは今一度、「眼横鼻直、是れ眼横鼻直に非ず。眼横鼻直、是れ眼横鼻直なり」と、眼横鼻直を認得し、直視せねばならぬこと、切なるものがあるといわねばなりません。

(短期大学部教授)

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