私の教え子に兄の名が大雄(だいゆう)、弟が雄峰(ゆうほう)という兄弟の学生がいた。名前の由来をきくと祖父がつけたという。しかし、詳しい意味は知らないとのことであった。彼らの祖父は有名な曹洞宗の布教師であった。迫力のある法話は説得力があり、ありがたく心打つものであった。
その布教師の弟子と私は同級生で、ともに学究の道を歩んだ。学生時代、その老師(ろうし)の住職していたお寺を訪ねた時、こんなことをいっておられた。それは、「いたみやゆがみで荒れていたこの寺院の伽藍復興が自分の誓願である。庫裡(くり)の復興は大学院修士課程の修了、本堂の復興は博士論文の完成と思っている。自分はその目標に向かって一所懸命精進(しょうじん)するから君たちも仏教学研究に努力せよ。競争しようではないか」と元気よく私たちを励ましてくれた。
その老師は見事な伽藍の復興を成し遂げた。自分でいっていた博士号を取得したのである。しかし、体の不調も省(かえり)みず、無理に無理を重ねて全国へ布教に回っていたため、腎臓(じんぞう)をいため、透析(とうせき)をせねばならない体となり亡くなられた。
二人の孫の名をつけた老師の思いは何であったろうか。中国江西省(こうせいしょう)にある大雄峰、すなわち百丈山(ひゃくじょうざん)に住む唐代の禅僧百丈懐海(えかい)の教えを実践する人になってもらいたかったのではなかろうか。
百丈は禅宗の修行法や生活規律、道場の組織などをまとめた『百丈清規(しんぎ)』を制定した人である。この清規により初めて、多くの修行者が集まる道場において、混乱もなく整然と修行生活が送れるようになった。一日仕事をしなかったならば、その日は食事をとらないという「一日作(な)さざれば一日食(く)らわず」の故事(こじ)で知られている百丈の精神は、禅宗教団の生活規則に欠かせないものであった。
『碧巌録(へきがんろく)』第二十六則(そく)に百丈の公案(こうあん)がある。ある僧(学人)が百丈に「如何(いか)なるか。奇特(きどく)の事」と尋ねた。奇特とはありがたいことで、「この世で最もありがたいことは何か」と問うたのである。そこで、百丈は「独坐大雄峰」と答えている。大雄峰とは百丈がいた百丈山のことで、そこに独(ひと)り坐(すわ)っているというのである。すると、その僧は礼拝(らいはい)した。それをみて百丈は僧をただちに打ったのである。
この禅問答だけでは何を主張しているのかはっきりわからないが、百丈の生涯は百丈山で坐禅三昧(ざんまい)であった。坐禅以上のものはありえないところから、「独坐大雄峰」と答えているのである。ところが、その僧は礼拝したのである。その礼拝は会得(えとく)せずにそれ以上のものを要求している礼拝であったため、百丈は痛棒(つうぼう)を与えたのである。つまり、坐禅をして悟りを開いた世界がすばらしい世界であるということに対し、ただ一人、大雄峰に坐っているだけというのである。坐禅をして悟ることへの執著(しゅうじゃく)を打ち消し、打ち払ったことばが「独坐大雄峰」であった。
お茶を飲む時には、ただお茶を飲めばよい。ご飯を食べる時には、ただご飯を食べればよい。日常生活のその時、その場のことを、一所懸命行(おこな)えばよいのである。百丈の精神を命名された二人は、今、住職となり、その教えを実践している。「独坐大雄峰」には、最近よく聞かれる「ぶれ」はないのである。
(教養部教授)